第27話 はじめての家
集会所を出ると、夜の空気がそっと肌を撫でた。
昼間の喧騒が嘘のように、村は静かだった。
遠くで、焚き火の火がぱちりと弾ける音が聞こえる。
エルフィナ――そう名付けられた少女は、胸の奥にまだ小さな熱を抱えていた。
「名前がある」ということが、こんなにも心を支えるものだとは思わなかった。
「こっちだよ」
リュシオンが歩き出す。
エルフィナはその背中を追いながら、ゆっくりと息を整えた。
村は小さく、家々は木と土で作られている。
どれも素朴で、いびつなところもあるのに、不思議とどれも温かい。
やがて、リュシオンは一軒の家の前に立った。
「ここが僕の家だよ」
木でできた小さな家。
壁は日に焼けて少し色あせているけれど、そのぶん手入れの跡が丁寧に残っていた。
窓辺には、干した薬草が束ねて吊るされている。
扉を開けると、草と木の香りがふわりと流れた。
それは、森の中で目覚めたときに感じたものと似ていて、けれどもっと暖かい匂いだった。
「ただいま」
リュシオンの声に、奥からゆったりとした足音が響く。
現れたのは、白髪をふんわりとまとめた女性――いや、その立ち姿と眼差しは、歳を重ねたからこその強さと柔らかさを持っていた。
「おや、おかえり。……その子が」
リュシオンは軽く頷き、エルフィナの横へ一歩出た。
「森で見つけたんだ。記憶をなくしていて……。しばらく家にいてもらってもいい?」
祖母は、エルフィナをじっと見つめた。
けれど、その視線には探るような鋭さはない。
ただ、受け止めて、見つめて、考える目だった。
「怖かっただろうね。……ようこそ。ここはもう、お前を拒まないよ」
その言葉は、焚き火の芯のように静かに温かかった。
エルフィナは思わず深く頭を下げた。
「……お世話になります」
「いいのさ。人は独りでは生きられない。助け合えるときは、助け合えばいい」
祖母はそう言い、手招きして家の奥へ案内した。
小さな部屋。
白い布を掛けた窓辺の寝台。
机の上には、手彫りの花をかたどった木飾りがひとつ。
「ここを使いなさい。足りないものがあったら言いにおいで」
そう言い残して、祖母はそっと空気を乱さないように部屋を出ていった。
エルフィナは寝台に腰を下ろし、肩にかけていた緊張をゆっくりとほどく。
――ここに、いてもいいのだろうか。
そう思った瞬間、胸に熱いものがこみ上げてきた。
そのとき、扉が再び軽く叩かれた。
「入ってもよいかい?」
祖母の声は、月明かりみたいだった。
扉が開くと、彼女は薄手の羽織をそっと手渡してくれた。
「夜風にあたると冷えるからね。星を見に行く子は、風に負けちゃだめだよ」
その言葉は、どこか意味深で、けれど優しい。
「……ありがとうございます」
「いいのさ」
祖母は微笑んで部屋を出ていった。
外は静かで、澄んだ空気が世界を包んでいた。
村には灯りが少なく、空いっぱいに星が浮かんでいる。
エルフィナは息をのんだ。
それは、まるで空が歌っているみたいだった。
「……綺麗」
思わず漏れた声は、風に溶けて消える。
その瞬間――
指先が淡く光った。
星の欠片のような小さな光。
すぐに消えてしまったけれど、確かにそこにあった。
「……なに、今の」
怖くはなかった。
ただ――懐かしかった。
(私……星を、知ってる)
けれど、思い出そうとすると胸が痛む。
触れようとしても、指がつかめない記憶。
けれど、確かに胸の奥で誰かが呼んでいる。
――エルフィナ。
それは、リュシオンの声ではない。
祖母でもない。
もっと奥深く、遠い場所から響く声。
星々は、ただ静かに瞬いている。
エルフィナは羽織を胸元で握りしめ、そっと目を閉じた。
名を得た今でも、旅は始まったばかりだ。
この夜が、すべての始まりだった。




