第17話 静かな問
星綴の間を後にした少女は、再び記憶の館の通路へと戻ってきた。
外の光はいつの間にか陰り、館の中に差し込む光も柔らかな銀に変わっていた。
まるで、時の流れすらここでは異なるかのように。
「……まだ、終わりじゃないんだ」
少女はそっと呟いた。
“記録を継ぐ者”――そう呼ばれたとき、自分にはまだ重すぎる気がした。
けれど、それでも不思議と足取りは軽い。
館の奥、天井が高く広々とした空間へと足を進めると、そこには大きな円卓と、無数の書が整然と並ぶ書架があった。
中央に置かれた石盤には、星をかたどった文様と、数本の羽根ペンが並べられている。
老書士が、少女のすぐ後ろに静かに現れた。
「ここは“紡ぎの室”じゃ。星の記憶に触れた者が、自らの言葉でそれを綴る場所よ」
「私が……ここで?」
「うむ。記録を残すという行為は、ただの報告ではない。
己が何を見て、何を想い、何を受け取ったか――それを“言葉”にすることで、記憶は形を持ち始める」
少女は目の前の石盤に手を伸ばした。
指先が、羽根ペンに触れる。
だが――書こうとした瞬間、胸の奥に生まれたのは、予想外の“問い”だった。
(私は……なぜ、名を失ったのだろう)
星々に呼ばれた者。
記録を継ぐ者。
けれど、その“始まり”を、少女はまだ知らなかった。
「老書士……私の名前が、空白である理由は、私自身がそう望んだものだったのでしょうか?」
沈黙が数秒続いた。
やがて老書士は、ゆっくりと答える。
「それを知るために、そなたはここへ来たのかもしれぬな。
記憶は失われるものではなく、“眠る”ものじゃ。
そして、時として、自らの意思で眠りにつくこともある」
少女は顔を上げた。
「じゃあ、私は……何かを“忘れたかった”?」
老書士はそれには答えず、ただそっと一冊の書を差し出した。
それは、真っ白な表紙に、星の銀糸が縫い込まれた手帳だった。
「これは“白の書”と呼ばれるものじゃ。記録の継ぎ手が自らの物語を綴るための器。
星の館に許された者にだけ与えられる、特別な書じゃ」
少女はそっと受け取り、手帳を開いた。
最初の数ページは空白。だが、その奥に――ひとつだけ、誰かの手によって書かれた言葉があった。
『名を持たぬあなたへ
――私も、かつてはそうだった』
少女の指が震える。
「これは……」
老書士は静かに微笑んだ。
「この館には、何人もの者が記録を求めて訪れた。
そなたが“唯一の存在”ではない。
同じように空白を抱え、答えを求めた者が、確かに存在していた」
そのとき、少女の中に新たな感情が芽生えた。
孤独ではない、ということ。
名がないということは、決して無ではなく、“物語の余白”なのだと――
少女は再び羽根ペンを握り、真っ白なページを見つめた。
言葉にならない想いを、どう綴るべきか。
だが、彼女はつぶやく。
「私は、まだ知らない。けれど……知りたい。
私が誰だったのか。何を見て、何を選び、そしてなぜ、ここに辿り着いたのかを」
星の光が窓辺に差し込んだ。
少女はその光に照らされながら、白紙のページに小さく、一行を綴った。
『私はここにいる。まだ名はない。けれど――心は確かに、ここに在る』




