第16話 星の名に導かれて
「――これは?」
少女は震える指先で、石壁に刻まれた文字をなぞった。
淡く光る古代文字。そのひとつひとつが、魂の奥底に語りかけてくるようだった。
老書士は少女の背後に静かに佇みながら、柔らかな声で告げる。
「星々の名が刻まれておる。ここは“星綴の間”。
この地に生き、あるいは消えた者たちの名が記される場所じゃ」
「……これは、墓標のようなもの?」
少女の問いに、老書士は首を横に振った。
「否。ただの記録でも、供養でもない。
これは、“名を持ちし者の軌跡”を留めるものじゃ。
この世界に確かに存在したことを、記憶というかたちで綴るための場所よ」
少女はそっと壁に手を当てる。そこには見覚えのない名前がいくつも並んでいた。
リュシオン、シエラ、マリス……見知った名もあれば、まったく知らないものもある。
だが、その中に――ひときわ淡く光る名があった。
「エルナ……?」
小さく呟いた瞬間、名を呼んだ唇が熱を帯びた。
心の奥で、何かが共鳴する。
「この人を……私は、知ってる?」
だが、思い出せない。記憶には、空白しかない。
老書士は静かに言葉を継ぐ。
「そなたが誰かを“知っている”と感じるとき、それは魂の縁によるものじゃ。
肉体の記憶ではなく、もっと深いところ……魂の根に触れる記憶の名残、というわけじゃな」
少女は壁の文字を見つめたまま、そっと胸に手を当てた。
確かに、名を読んだそのとき――心が、揺れた。
懐かしさにも似た感覚が、ゆっくりと染み込んでくる。
「エルナは……私の“何”なんでしょうか?」
その問いに、老書士はすぐには答えなかった。
代わりに、壁の奥にある古びた扉を指し示す。
「その答えは、今のそなたにはまだ早い。
だが――“記録の継ぎ手”として歩む者には、いずれ訪れるであろう」
少女は振り返り、老書士の穏やかな眼差しを見つめる。
「私が、記録を継ぐ者に?」
「うむ。選ばれるとは、呼ばれるということ。
そなたがここに辿り着いたという事実そのものが、既に“記憶の網”に織り込まれておる」
少女は視線を下ろし、石床に刻まれた星の印を見つめた。
呼ばれたのか、それとも自ら求めてここに来たのか。
その境目は、今ではもうわからなかった。
けれど、確かに感じる。
ここに来てよかった、と。
「……私、進みます。
わからないことだらけだけれど、今は……そうしたいって、思うから」
老書士はゆっくりと頷いた。
「その意志こそが、記憶の継ぎ手に必要な灯火じゃ。
名を持たぬ者も、やがて名に辿り着く。
その日まで、そなたの歩みを記録する者もまた、ここにいる」
少女は深く息を吸い、再び“エルナ”の名に目を向けた。
まだ、その名の意味も姿も知らない。
けれど――
「あなたのこと、ちゃんと知りたい」
そう、そっと呟いた。
それは記憶の扉に、もうひとつの鍵を差し込んだ瞬間だった。
静かに、だが確かに、星々の囁きが――遠くから届いていた。




