第15話 星綴の間
朝の光が森を染め、鳥たちのさえずりが静かな村に響いていた。
少女は、再び記憶の館の前に立っていた。
昨日、初めて触れた“星の記憶”の石板――
あの瞬間、胸の奥に灯った微かな光は、夜を越えてなお消えず、彼女を再びここへ導いた。
自分のなかに、まだ呼び覚まされぬ何かがある。
その思いだけが、背中を押していた。
扉を押し開けると、館の中は変わらぬ静寂に包まれていた。
だが、不思議とその静けさは、昨日ほど冷たく感じなかった。
すると、奥の薄闇から、あの老書士が現れた。
「戻って来られたか」
老書士の声は低く、穏やかで、どこか嬉しげだった。
「……はい。昨日の記憶が、まだ胸の中で揺れていて……」
少女の言葉に、老書士はゆっくりと頷いた。
「では、そなたはもう一歩、星の深みに触れる覚悟を持ったのじゃな」
少女は頷いた。
老書士は振り返り、館の奥へと静かに歩き出す。
「ついてまいれ。次に案内するのは、ここでも限られた者しか足を踏み入れぬ場所――『星綴の間』じゃ」
その名を口にした瞬間、空気がひんやりと変わった気がした。
⸻
館の奥、重たい石扉の先。
老書士が手をかざすと、星の紋様がふっと浮かび上がり、鍵も音もなく扉が開いた。
現れたのは、円形の静謐な空間。
中央には低い祭壇のような台座、壁の棚には無数の古文書や、巻物、錫製の星盤が並んでいる。
天井は高く、円形の中心には大きな丸い窓――星窓があった。
今は朝であるはずなのに、その窓からは、まるで夜空のように微細な星の光が瞬いていた。
「ここが……」
「『星綴』の名の通り、この間には、かつて空を旅した記憶たちが綴られておる。
その中には、星のもとに生まれ、星に還った者たちの痕跡も含まれているのじゃ」
老書士はゆっくりと祭壇に歩み寄ると、薄い箱のような文書を一つ、そっと取り出した。
「これは“エルナ”という者に関する記録。何世代も前、この地で一度だけ名が残された娘じゃ」
少女は、その名前にどこか心が引かれるのを感じた。
「……エルナ……」
「そなたの記憶とは直接の結びつきがあるとは限らぬ。だが……この星綴の間に導かれた者には、何らかの“縁”があると古くから伝えられておる」
老書士は文書を少女の前に差し出す。
「見るかどうかは、そなたの意志に任せよう」
少女は、一瞬だけ目を閉じ、深く息を吸った。
そして、決意を込めてその記録を手に取る。
中には、丁寧に綴られた文字、そして挿絵のようなものがあった。
風を受けて笑う若い少女。背後には天文台のような建物。星を映す水鏡。
「……知ってる、ような……気がする……」
その瞬間、また胸の奥に、あの光の粒がふわりと踊った。
だが、それは記憶というにはあまりにも曖昧で、夢の断片のようだった。
「焦らずともよい。記録とは、思い出すためのものではなく、“思いが還る”ための場所でもある」
老書士の言葉が、優しく少女を包み込んだ。
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文書を静かに閉じると、少女は台座の前にしばらく立ち尽くした。
ここにある記憶たちは、誰かの生きた証。
そして、自分の魂にもきっと、まだ名のつかない物語が眠っている。
「私にも……いつか、こんなふうに、記される日が来るでしょうか」
「その日が来るかどうかは、そなたの歩みにかかっておる。
だが、すでに一歩を踏み出したそなたなら――いずれ必ず、自らの“星綴”を残すこととなろう」
少女は静かに目を閉じた。
「ありがとう、老書士さま」
老書士は微笑んだ。
「こちらこそ。再びここに立つ者に出会えたことが、何よりの喜びじゃ」
星綴の間には、深い静寂が戻っていた。
だが、その静寂の中には、確かな光があった。
少女の内に灯った、小さな星のような意志。
それは、遠く未来の夜空に向けて、密かに輝き始めていた。




