第10話 名を継ぐもの
リュシオンと別れてから、小屋までの道を少女はゆっくりと歩いた。
森の中には昼の光が満ちていたが、どこか静けさが漂っていた。鳥のさえずりも、風の音も、どこか遠くに感じられる。
胸の奥に、あの言葉が残っていた。
「君の名前、その形を、いっしょに探そう」
リュシオンの声が耳に残っている。
ほんの短い会話だったはずなのに、まるで長い旅の始まりのように感じられた。
小屋に戻ると、窓辺にシエラがちょこんと座っていた。
「おかえり」
「ただいま、シエラ」
シエラは少女の肩に飛び乗ると、じっと彼女の顔を見つめた。
「なんだか……顔が明るい」
「そうかな」
「うん、何かいいことがあった?」
少女は少し考えてから、静かに頷いた。
「名前のこと……誰かと話したの。名を、いっしょに探そうって」
「そっか」
シエラはうれしそうに羽を震わせた。
「きっと、その人と出会うことも、名前を思い出すことも、全部“導かれて”いるんだと思う」
少女はその言葉に、あの日拾った羊皮紙の一節を思い出した。
『名とは、魂の形。星の下に紡がれるもの。』
日が傾きかけた頃、少女はひとり、小屋の外の木陰に座っていた。
空は淡い茜色に染まり始め、森が静かにその色を受け止めていた。
指先で草を撫でながら、少女はぽつりと口を開いた。
「私は、ほんとうに……誰だったんだろう」
誰かの声が聞こえた気がする。夢の中で呼ばれた名。それを思い出そうとしても、霧のように指の隙間からこぼれ落ちる。
それでも、なにかが確かに――心の奥で呼びかけている。
夜になっても、その問いは心から消えなかった。
そして――少女はまた夢を見た。
夢の中、彼女は星のない夜空の下を歩いていた。
足元には透明な水が広がっていて、空と海の境がわからなくなるような場所だった。
ふと、誰かの声がした。
「その名は、忘れてはならないもの」
振り返っても、姿は見えない。けれど、その声ははっきりと彼女の名を呼んだ。
まるで祈りのように、やさしく、まっすぐに。
目覚めたとき、少女の頬には冷たい涙の跡があった。
それが夢のせいなのか、それとも何かを思い出しかけていたせいなのかは、分からなかった。
朝の気配が、小屋の窓から差し込んでいる。
床に落ちた露のしずくのような光が、ゆらゆらと揺れていた。
少女は、胸に手を当てた。
「もうすぐ、きっと――」
そこまで言って、彼女はそっと目を閉じた。
名もなき自分。けれど、名を得ようとしている自分。
そのはざまに立つ今の時間は、不安でもあり、どこか温かくもあった。
そして彼女は知っていた。
その名は、過去から未来へと継がれる、たったひとつの言葉になることを――。




