第9話 星の導き
朝、小屋の扉を開けると、森の空気が胸いっぱいに広がった。
ひんやりとした風に混じって、朝露の香りがかすかに漂っている。
あの出会いから、三日が過ぎた。
星降る夜に現れた青年――リュシオン。名を問われ、何も答えられなかった自分が、心のどこかでそれを引きずっている。
彼の名前は覚えていた。不思議なことに、一度しか聞いていないはずなのに、何度も口の中で転がしたくなるような響きだった。
彼の目の色も、声の調子も、なぜだか夢のように、頭から離れなかった。
「……また、会えるのかな」
少女は誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。
朝露が光る足元を踏みしめ、彼女は森の奥へと向かう。
小道に咲く小さな白い花たちが、露に濡れながら静かに揺れていた。
あの夜のあと、少女は何度も夢を見た。
崩れ落ちる塔。星々の海。光に包まれる扉。
そこに立っていた誰か――顔は見えないけれど、名前を呼ぶ声だけが、鮮やかに響いていた。
名を持たないまま生きているということが、これほどまでに心を曇らせるものだったとは、思っていなかった。
「私には、名がない。でも……それでも、ここにいる」
誰に向けてでもない言葉を、そっと空に放つ。
その瞬間、森の風が葉を揺らし、朝露の雫が一つ、葉先から落ちて消えた。
少女は立ち止まった。
小道の先、一本の古い木の根元に、何かが落ちている。
「……紙?」
それは、少し黄ばんだ羊皮紙だった。風に運ばれてきたのかもしれない。
指先で拾い上げると、インクの滲んだ文字が、かすかに浮かび上がっていた。
『名とは、魂の形。星の下に紡がれるもの。』
またこの言葉――。
少女はそれを胸に抱え、森の奥の広場へと歩き出す。
草の上に座り、目を閉じて耳を澄ませば、風と葉音、遠くの小鳥の声、妖精たちの羽音。すべてがやわらかく溶け合っていた。
「やっぱり……名前が、欲しい」
呟いたその時だった。
背後から、優しい声が降ってきた。
「やっぱり、君だったんだ」
少女は振り返る。
そこにいたのは、あの夜と同じ――いや、あの時よりも少し日焼けした、温かな目をした青年、リュシオンだった。
彼は驚いたような、でもどこか安心したような表情を浮かべていた。
「三日間、ずっと森を歩いていた。君にまた会えるかどうか、自信はなかったけど……どうしても確かめたかったんだ」
少女の胸が、きゅっと音を立てた気がした。
「……私も、会えるかもしれないって、思ってた」
ほんの少し迷いながら、けれど正直に答えると、リュシオンはふっと微笑んだ。
「君のこと、ずっと考えてた。君の名も、君の声も、何も知らないのに――でも、なんだか、すごく懐かしい気がして」
彼の言葉は、少女の中の深い場所に染み込んでいくようだった。
思い出せないのに懐かしい。名もないのに、名を呼ばれている気がする――そんな不思議な感覚を、彼も感じていたのだ。
「私……まだ、自分の名前がわからないの。でも、きっと、どこかにあるって思ってる」
そう言ったとき、リュシオンはまっすぐ彼女を見つめた。
「なら、見つけよう。君の名前――その形を、いっしょに探そう」
少女は目を伏せ、けれどその胸には小さな光が灯っていた。
彼の言葉が、まるで夜明けの星のように、心を照らしていたから。
――朝露は、すでにすっかり消えていた。
でもその代わりに、少女の胸には、小さな確信が残っていた。
星の導きは、もう始まっている。
改行難しい。どうやったら上手くなるんだろう。




