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名前のない貴族

恩と媚は以下略

作者: 羽月仁子

最悪の結婚初夜から一夜明けた朝、うっかり階段を踏み外し、前世の記憶がよみがえっていた。

 なんていう面白いことが起きるはずもなく、当然のことながら死に戻りだってしていない。何かしら良い感じに進んでくれないかなあという希望だけがそこにある。

 つまり、私は私のまま力強く生きている。誇張ではなく文字通り、強く、箒を振り回しながら生きている。

 あの日からひと月経った今、私はあの頃より格段に強くなった。


「もしかしてあの男がこじ開けられない鍵ってこの世の中には存在しない?」

「……監獄で使われている鍵ですら突破する予感がします」

「まさかあんなにも逃げることに特化した能力があるなんてね……予想外だわ」

「あのお方は貴族でいるよりも、コソ泥になったほうが輝けるのではありませんか?」

「そんな気がしてくるから不思議ね」


 盗賊ではなく、コソ泥。それが彼が彼たるゆえんだ。盗賊なんていう大物にはなりえない小物感。それが我が夫である。

 ところで、私は先日、騙して…──、いや正式な手続きを踏んで夫となった彼を立派な傀儡にしようと日々奔走している女伯爵だ。

 楽しい領地経営と、暴れ狂う魔物を手懐けるよりも難しい夫の攻略の、深くて暗い溝はなかなか埋まらない。正直投げだしたくなってくるが、これも仕事(領地経営)の一つだと自分を奮い立たせて、あの手この手で夫の懐柔を試みている。

 今のところ全戦全敗だ。


「大旦那様も手を焼いているようですが、非常に楽しそうです」

「少々乱暴に扱っても壊れそうにないものね。とても生命力にあふれているわ」

「ゴキブリ並みです。どこでも生きていけるでしょうね、きっと」

「……長生きしそうでなによりね」


 面倒を見るのが大変だなんて思っていない。大事だから二回言うけど、思っていない。それに生命力にあふれているところは大いに評価できる。どんな環境でもしっかり食べて眠る神経の図太さがある人間は非常に強くて良い。さすが大家族の一番末っ子。甘やかされてはいるものの、大家族で育ったゆえの図太さはピカイチだった。


「大家族とはいえ侯爵家出身なのに、なんなのこの図太さは」

「まあ、一番末の子供ですからね。それなりに苦労はしたんじゃないんですか? 知りませんけど」

「家族の甘やかしがなければもう少しそれなりにそれなりな人間になったでしょうね」

「今から〝それなり〟に仕上げるわけですが」

「そうね。とりあえず部屋の鍵の件はもうあきらめましょう。彼なら脱獄が不可能と言われているあの監獄からでも逃げ出せるわ、きっと」


 それはそれで見てみたい気もした。目の前に執事であり幼馴染でもある彼も同じことを考えたようだ。互いに顔を見合わせて、同時に開きかけた口を閉じた。あくまで妄想の話だ、うん。


「鍵代も馬鹿になりませんからね」

「他所で子種を蒔かなければいいだけの話だし」

「なるほど………つけますか?」


 執事の目は本気だった。デジャブかと思った。

 今回も、なにを、とは言わなかった。つまりそういうことだ。男性物もあるのか、なんて決して言ってはいけない。あるということを今ここで初めて知ったが、本気でつけようとは思っていない。そんなことしたら逆に私の性癖が疑われる。貴族というやつは娯楽に飢えているので、こういうゴシップはすぐに広まるのが厄介なところである。


「止めて頂戴。ここの女伯爵が変態だというウワサが飛び交うだけよ」

「変な虫が寄り付かなくていいじゃないですか?」


 変な虫とは一体? そもそも今までモテたことなど一度もないし、なんなら私は既婚者だ。まあ既婚者に変な虫がついたら外聞が悪いことは間違いない。


「世の中には物好きな人っていますから」

「……喧嘩を売っているのかしら?」

「まさか。奥様は大変みりょ……魅力……的?」


 コテンと首を傾げる、二十五歳男。可愛いがすぎる。が、腹も立つ。

 この幼馴染、計算でこれをやっているから質が悪い。これで数多の女を泣かせてきた経験と実績がある。クズ男ギリギリだが、持ち前の勘の良さと相手の性格をきちんと見極めて円満にお別れする非常に高いスキルを彼は持っていた。

 成り上がり商家の息子としては申し分ない能力だ。家業を継いだ方がよほど彼のためだと思うけれど、なぜか彼は私の執事をやりたがる。

 単純に幼馴染をからかって生きることに生きがいを感じているだけかもしれない。


「よし! わかったわ。一度、表に出なさい。ここはいったん、奥様と執事ではなく、幼馴染として腹を割って話しましょう!」

「まあまあ落ち着いてください、奥様。ついでにオチもつけてほしいですが」

「私はどちらかといえば食虫植物だから、虫程度なら何とかなるわよ」


 ……たぶん。

 貴族女性として処女であることが好ましいと言われている世の中だが、こちらにもいろいろと事情があり、表向き「男なんて知りませんわ……」という顔をしているだけで、酸いも甘いも嚙み分けてきたこの私が、十代の小僧にヤリ捨てされるようなことになるわけがない。

 過信は良くないが、大丈夫と思える根拠はある。声高には言えないが。

 なので現状、不本意ではあるが、執事が以前言っていた通り、搾り取ってくる方法が個人的には好ましく思っている。

 という話はとりあえず、置いておいて。


「そろそろ一度、あの人と話し合わなければね」

「ああ……やっと搾り取る決心を?」

「したわけじゃあないけど、それも含めて、ね」


 もう鍵は無駄にしたくない。このひと月で随分と鍵に詳しくなったし、変な繋がりもできてしまった。あまりにも強固な鍵を求めているため、あの家ではとんでもない猛獣を飼っているのではないかと噂されている。


「あながち間違いではありませんが? ある意味では猛獣です」

「そんなに性欲の強いタイプには見えないけど」

「わかっていませんね、奥様。男はオオカミっていうじゃないですか?」

「なるほど。それは経験から?」

「いやだなあ。あくまで一般論ですよ、一般論。私は非常に理性的な女好きです」

「……理性的な……女好き」


 すごく良い笑顔で言うな、この執事。理性的とは何か、一度きちんと辞書で調べてきたほしいものだ、とは言わなかった。


「今日の夕食のときに、彼と話します」

「では夕食は消化に良いものを準備させます」

「頼んだわ」


 そして運命の夕食の時間がやってきた。

 夫は三食昼寝付きの生活にすっかり慣れ、そして私との距離感にも慣れていた。


「話があるとのことだが?」

「つかぬことをお伺いしますが、閉じ込めてしまうと外に出たくなるのが人間の性なのでしょうか?」

「アンタが用意する鍵が難攻不落であるほど燃えるな」

「では、この屋敷を出て何かおやりになりたいことがある、というようなことはございますか?」

「ないこともない」

「わたくしと結婚する前にお付き合いされていたご令嬢はどうなさったんです?」

「さあな。そんなに深い付き合いでもなかった。愛人くらいでちょうどいい女だ」

「なかなかひどい話でございますね」


 つまり話をまとめると、別に女遊びがしたいというわけではなく、難攻不落の鍵を開けるのが楽しいと、そういうことなのだろうか。いや、まさか。


「今日は鍵がかかっていなかったが、もうネタ切れか?」

「そうですね……。貴方のお眼鏡に適いそうなものは国内にはなさそうですね」

「そうか。なら俺が自ら隣国に買い付けにいこう!」

「は? なんて?」


 名案だと言わんばかりの声音に、夫の前ではなんとか取り繕っていた淑女の仮面がはがれた。


「馬鹿言わないで頂戴。貴方この屋敷から出たら二度と戻ってこないでしょ」

「開けるべき鍵があるなら戻ってくる」

「えー……その鍵を自分で買いに行って自分の部屋につけるつもりなの?」

「そうだが」

「一体どういうタイプの変態なのよ!!」

「アンタに言われたくない」

「は?」

「侯爵家のクズを引き取って傀儡にしようとしている女は間違いなく変態だろう」

「失礼極まりないわね」

「お互い様だ」


 破れ鍋に綴じ蓋ですね、と背後で執事が呟いた。解せぬ。自分が世間一般的な令嬢でない自覚はあるが、変態と言われるほどではない、はずだ。たぶん、きっと。


「……クズだけど、馬鹿ではなかったのね」

「勉強ができないという意味で言うなら馬鹿だと思うがな。ただ今さら愛人なんか作って変に慰謝料とか請求されたくないし、この素晴らしい三食昼寝付きを手放す気もない。適度に娯楽を与えてくれれば俺はもうそれでいい」

「もう少しやる気を出してくれないかしら? ダラダラゴロゴロしているだけじゃあお金は稼げないのよ!」

「どこまで金が好きなんだ、アンタは」

「お金なんてあるに越したことはないわ。まあ領民を苦しめてまで得たいとは思っていないけれど」


 これでも我が家は非常に苦労したのだ。

 王都から少し離れたところにある伯爵家の領地は、数十年に一度の大飢饉に見舞われた。その日食べる食材さえ満足に得られない領民たちに備蓄分の食料を分け与え、さらに売れるものは何でも売って資金を準備し、近隣の領地や王都に物資の要請をして、なんとか乗り切った過去がある。あの時は、さすがに私たちも領民たちと変わらぬ食事をして、質素倹約に努めた。涙なくしては語れない話だ。(今までこの話をして泣いたことはない)


「最後は金がモノを言うのよ」

「な、なるほど……」


 目の前のクズ、もとい夫は私の迫力に推し負けたのか、少し引き気味だった。アンタが金に執着する理由はよくわかったと、深く頷いている。その頭を小突いてやりたいと、一瞬だけ思った。なんだか馬鹿にされている気がした。


「そんな守銭奴の私の前で、よくもまあ隣国に馬鹿高い鍵を買いに行こうとしていると?」

「自分で言うのか、守銭奴って……。というか、アンタ喋り方が素になってるぞ」

「もう面倒だわ。淑女の仮面なんてもはや無駄。必要とあれば被るけど、今さら貴方の前で被っても意味がないもの」

「それはそうだが」

「いいわ。貴方が絶対に開けられない鍵を探して見せるから待ってなさいよ!」

「……あ、ああ……わかった」

「奥様はああ見えて直情型なので、急にスイッチが入るんです」

「覚えておこう」


 その日の夜、私にお手製のハーブティーを入れる執事が「あのお方は意外と骨がありそうですね」と、急に評価を改めたのが怖くて、思わずハーブティーをこぼしてしまった。決して、そのハーブティーに不穏な空気を感じたからではない。


「チッ……気づかれたか」

「私の体で実験するのは止めて」

「奥様は丈夫でいらっしゃるのでこのくらいなら平気かと」

「それでこれは何なの?」

「非常によく効く下剤です」

「クビにするわよ?」

「またまたー」


 というわけで、私は今日も箒を振り回しながら生きている。



end.(2023.9.8)

野心家のお嬢様(奥様)と執事(奥様と同世代の商家の息子)は至極真面目に働いています。

そして執事の趣味は薬草の調合です。

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