だから恋人同士じゃないんだが
四限の終わりは戦争だ。
いきなりなにを物騒なことを、と思われるだろうが、これは比喩でもなんでもない。
起立、礼、ありがとうございました。そう日直に倣って教師に頭を下げるのも数秒、教室のドアを勢いよく開け放って、担当教員が出ていくよりも先に、廊下側の席に腰掛けていた生徒が疾駆する。
それに続く形で真ん中の列やら窓際の席に腰掛けていた生徒たちも我先にと教室を飛び出していくものだから、これを地獄絵図と呼ばずしてなんと呼べばいいのやらといった風情だった。
教師から廊下を走るなと怒鳴られようが止まらない、そんなあいつらの狙いは二つに一つだ。
学食でいい席を取るか、あるいは購買で目当ての菓子パンを勝ち取るかのどっちかだと、相場が決まっている。
ぼやっとしてれば知らないやつと相席になったり、残り物のコッペパンを片手に敗残兵のごとく教室に泣く泣く引き返していくしかない、とは、三木谷が言っていたことだった。
うちの高校はそれこそ「特長がないことが特徴」を地で行くくらい普通の公立校なのだが、しいて名物を挙げるのであれば、この学食・購買戦争があることだろう。
別にコッペパンだろうがなんだろうが食えて腹が膨れればそれでいい俺にとっては関係ない話だが、単純に購買や学食に行く時間がもったいないし、コッペパンを買う金で中古の問題集やラノベが一冊買えると考えると、どうしても行く気になれないのだ。
安いものを基準にして物事の価値を測っていると、QOLが目減りしていくとは俺が藤堂に言ったことだったが、自分がそんなことをしてるんだから世話がないと自嘲する。
「……ぁ、ぇ……えっと……九重、君……」
「白雪か、ここなら空いてる」
「……あ、ありがとう……ございます……」
昼飯時になると、白雪が俺の席までおずおずと椅子と弁当箱を持ってくるのが、この二週間である種の恒例行事になっていた。
俺の席の近くなんていつでも伽藍の堂だが、その遠回しな問いかけが白雪なりの「一緒に昼飯を食べたい」というメッセージだと気づいてからは、このやり取りが符牒みたいなものになっている。
俺の席の隣に椅子を置いた白雪は、弁当箱を取り出すと、風呂敷包みの代わりにしているバンダナを解く。
相変わらず可愛らしいピンク色の弁当箱だ。
白雪らしい、といったら失礼になるんだろうか。今の時代、なにがハラスメントになるのかわかったもんじゃないからな。
地雷は踏まないに越したことはない。そんなことを頭の中で捏ねくり回しながら、白雪の様子を横目で伺ってみれば、なんとなくではあるが、そわそわしているような気がした。
「……どうした、白雪?」
「……ぁ、ぇ、えっと……そ、その……」
「ああ」
「……き、今日の……お弁当……お、お姉ちゃんと比べたら、へたっぴですけど、その……が、がんばって……手作り、して、みたんです……あ、あの……え、えっと……こ、九重君が、よければ……その……味見してほしいな、って……」
好きに上手も下手も関係ない。
いつか白雪に言ったその言葉が実を結んだのか、それともただ白雪が気まぐれを起こしたのかはわからない。
ただ、こいつなりに精一杯勇気を出して、頑張ったんだろうなということだけは、俺にも理解できた。
なんだろうか、妙に感慨深いな。
成長途中の娘を見ているような、あるいは。
自分の中に浮かび上がってきたその残滓を心の奥底に沈めながら、俺はおどおどと視線で味見してくれるかを確認している白雪に頷き返す。
「構わない」
「え、えっと……それじゃ……あ、あーん……」
「どうしてもそれをやらないと駄目か」
「……だ、ダメ、です……わたしたち、お友達……です、よね……?」
それは明らかに友達同士でやるようなことじゃないと思うんだが。
いやまあ野郎同士でふざけてそういうことをする機会が決してないとはいわないが、異性を相手にしたら話が別だろう。
なんて話を今の白雪に持ちかけて、落ち込ませるのも無粋というものだ。それはわかっている、わかっているんだが、白雪祈里の距離感はやはりどこかで致命的にバグっている。
やはりというかなんというか、今回もまた観念する形で俺は口を開けた。
今回白雪が作ってきたのは、唐揚げだった。
男子が喜ぶおかずの上位ランキングに食い込んできそうな代物だ。口に含んで咀嚼すれば、冷えていても尚味わい深い、いい意味でジャンクな揚げ物感と、丁寧に漬け込まれた結果であろう、肉についた醤油味が舌先から電流のように脊髄を伝って脳を痺れさせる。
美味い。強いていうならニンニクが使われていないからパンチに欠けるところはあるが、それも女子が作ってきたと考えれば自然なことだ。
その分ショウガの味が効いてるところがポイントだな。
料理評論家じゃないが、自炊はできる方だからなんとなくわかるといえばわかる。白雪は自虐していたが、これは相当美味い方だ。自信を持っていい。
「……ど、どう……です、か……?」
「美味い」
「……ほ、本当に……ですか……? お、お世辞とかじゃ、なくて……?」
「……ああ、俺も簡単なものだが結構自炊はする方だ。自信を持っていい」
「……よ、よかった、です……あっ……そ、その……ごめんなさい……疑っちゃった、みたいで……」
ぺこり、と白雪は頭を下げる。
別に気にはしてないんだがな。むしろ、さっきも言ったが、白雪は自分にもっと自信を持っていい。
白雪希美がどんな分野でも自分より上にいる、というのは相当なプレッシャーなんだろうが、別に俺は白雪希美のことを知らない以上それも関係ない。あくまでフラットに、そう思ったまでの話だ。
しかし、揚げ物があると飯が進むな。
例によって中身が梅干しのおにぎり二つだけというよくいえば質素な、悪くいえば貧相な俺の昼飯だが、こうして白雪におかずを分けてもらっていることで一気に彩りが増えたような気がする。
他人頼みなところは情けない限りだが。
「……あ、あの……っ……!」
「なんだ、白雪」
「……そ、その……こ、九重君が、よければ、ですけど……わ、わたしにも……あ、あーん、って……して、ほしいな……って……」
ちょっと待て。
白雪は頬を紅く染めて俯きながら、とんでもないことを提言してきた。
あーんもなにも、俺が食ってるのはおにぎりだぞ。なにをどう分けろというんだ。
せめて口をつけてない方をと思い、もう一つのアルミホイルを用意して白雪の方に視線を向ければ、あからさまに不機嫌というか、俯いたまま頬を膨らませているのが目に映る。
いや、俺の食いかけとか別にそんな価値があるもんでもないだろう。というか価値換算したら間違いなくマイナスだぞ。
だが、確かに自分が白雪と事故とはいえ間接キスをやらかしてしまったことを考えれば今更というか、イーブンにはなるんだろうか。
わからない。考えれば考えるほど思考回路のヒューズが次々に飛んでいくのを感じる。
これなら数学の文章問題やってた方がいくらかマシだぞ。あっちはちゃんとした解き方と正解があるからな。
乙女心に解はない。難しい話だと自分に言い聞かせて観念しつつ、俺は食いかけの方を白雪へと差し出した。
「……」
「……」
なんだその沈黙は。
言わなきゃいけないのか。言わなきゃならないのか。
ぷい、と頬を膨らませたまま横を向いてしまった白雪は、どうやら梃子でも動かなそうだった。こうなればもう俺も、腹を括る他にない。
「……あーん」
「……あ、あーん……っ……」
なにやってんだろうな、俺は。
食いかけのおにぎりを他人に差し出すという人生でもおよそ経験したことのない珍事の当事者となった気分はどうだと問われれば、形容し難いとしかいいようがない。
それでも一つ挙げるのなら、気恥ずかしい、だろうか。いや本当に、どこのバカップルだよ。
「……ん……っ、おいしい、です……えへ……」
「……それはなによりだ、ただの握り飯だがな」
「……で、でも……こ、九重君の……あ、愛情が……詰まってます、から……」
「そうか……」
愛情こもってたのか。知らなかったそんなの。
俺ですら知らないものを感知して満足げな白雪は、ニュータイプの類なんだろうかと疑問に思いつつも、その小動物めいた仕草が妙にしっくりくるというか、こいつらしいな、と感じて、つい気が緩んでしまう。
距離感がおかしいのはこの際置いておく……わけにもいかないんだろうが、出会った時と比べれば、格段に笑顔を見せてくれるようになったと思うと、なんだかそれでいいと、現状を許容できる気がしてくるから不思議なものだった。俺たちは、恋人じゃないってのにな。