【01】河童の呪い
その昔、日照り続きで村が飢饉に襲われた。
すると、山の方から河童がやってきて、雨を降らせてやる代わりに庄屋の娘を嫁に欲しいと申し出た。
背に腹は変えられず、庄屋はこの申し出を受け入れる。
河童は「三日まて。またくる」と言い残し、沼へと帰っていった。
その三日後だった。
本当に雨が降り、干からびた田んぼや井戸に水が張った。
村人たちは大喜びしたが、ひとりだけ浮かない顔をする者がいた。庄屋の娘である。
河童の嫁になどなりたくなかった庄屋の娘は、村の若い衆を集めて河童を捕らえさせた。そのまま村外れの松の木に縛りつける。
他の村人たちも喉元過ぎて熱さを忘れたのか、庄屋の娘の肩を持ち、誰も河童を助けようとしなかった。
やがて河童は頭の皿が干からびて死んでしまう。そのまま松の木の根元に埋められた。
それからしばらくして、恐ろしい事が起こるようになった。
村人が次々と、木乃伊のように干からびて死に始めたのだ。
村人はこれを河童の祟りであるとして恐れ戦いた。
結局、村人たちは思い悩んだ末に、町に住む偉い僧侶に助けを求める。
僧侶は河童の骨を掘り返し、村外れの沼へと沈めた。
そして、沼の畔に弁天様を祀る御堂を建てて弔った。
するとそれ以降、干からびて死ぬ者は現れなくなったのだという。
風が駆け抜ける。木漏れ日が地面に描いた斑模様が一斉に揺らめいた。
シズはおぼつかない足取りで、誰もいない森の中を進む。
遊びにやってきて、兄の源時朗やその仲間たちとはぐれてしまったのだ。道は既にわからなくなり、完全に迷っていた。
「兄さん……どこ? 置いていかないで」
半泣きになりながら呟いたその言葉は、狂気じみた蝉時雨によってかき消される。
幼いシズの瞳に涙がにじんだ。
「うぇ……うぅ……兄さん……兄さんっ!!」
唐突に込みあげる恐怖にかられて彼女は闇雲に走り出す。
地面に張り出した木の根に足を取られ、何度か転びかけるも、シズは一心不乱に薄暗い森の中を走る。
「怖いよ……怖いよ……!」
しばらくすると目の前の景色が開けた。眩い光がシズの瞳に飛び込んでくる。
「あ……ああ……」
その光景を目の当たりにし、シズは唇を戦慄かせる。
そこは木々に囲まれた沼の縁だった。
蓮の葉が浮いており、ちょうど左側に立派なお堂がある。
弁天沼。
決して近づいてはならないと、大人たちから言い聞かされている場所だった。
曰く、この沼には恐ろしい河童の怨霊が眠っていて、近づくと引きずり込まれてしまうのだという。
事実、何年か前に、この沼で村の幼い子供が溺れ死んだ事があった。
恐る恐る、シズは回れ右をして今きた道を戻ろうとした。
……その、瞬間だった。
突然、沼の中央で大きな水柱が立った。
飛沫はシズの背丈などより、ずっと高く舞いあがっていた。
その音に驚いたのか、周囲の木立から無数の鳥が一斉に羽ばたく。
シズは驚きのあまり飛びあがった。そして、確信した。これは河童の怨霊が現れたのだ……と。
シズは再び泣きわめきながら、弁天沼に背を向けて駆け出す。
背中に突き刺さる気配を感じたような気がした。うなじが総毛立つ。
まるで、飢えた獣に追われているような感覚は、疲労困憊だったシズの本能を突き動かした。
木々のざわめき。
相変わらず五月蝿い蝉の声と、自らの足音、息遣い……。
その向こうから、何かの唸り声が聞こえてくるような気がした。
「助けて!! 助けて!! 助けてえええ!!」
半狂乱で叫び散らしながら、息も絶え絶えになり懸命に駆け続ける。
すると、シズの目の前に突然何かが立ちはだかる。
シズは鼻先をぶつけて尻餅を突いた。恐る恐る、視線をあげると……。
「おい、シズ。どうした? べそこいて」
探していた兄の源時朗がそこにいた。彼の背後には仲間たちの姿もあった。
シズは慌てて立ちあがり、まくし立てる。
「兄さん! 河童! 河童の怨霊が出た! 早く逃げなきゃ!!」
源時朗は一瞬だけ真顔になると仲間たちと顔を見合わせ、次の瞬間、爆笑した。
「嘘じゃないッ! 河童が追いかけてくるッ! 河童がくるのッ!」
「どこにいるんだよ? 河童なんて」
仲間のひとりがシズに向かって言った。
シズは後ろを振り向き、右手を伸ばして指を差す。
「あそこに……」
しかし、そこにあったのは――
何の変哲もない晩夏の森だけだった。
「河童が何だって?」
源時朗が優しく微笑みながら、シズの頭に手を置いた。
風が吹き、木立がざわめく。
寒蝉がどこかで鳴いた。
その日の午前八時過ぎだった。
既に鋭い陽射しが世界を焼きつくそうとしていた。
そんな最中、田所和子は自宅の玄関前で打ち水をしていた。
バケツを持ち柄杓で丹念に水を撒く。
そうして、エントランス回りを一通り濡らし、バケツに残った水を流して捨てようとした。
すると、見知った顔の者が門前を横切ろうとする。田所は加齢で曲がった腰を伸ばし声をあげる。
「おや、村瀬さん。どこへ行きなさるね?」
隣家で暮らす村瀬源時朗であった。
動きやすそうなジャージに半袖のポロシャツ。孫から誕生日プレゼントに貰ったというショルダーポーチを肩から提げている。
村瀬は立ち止まり、にこやかな顔で田所の言葉に応じる。
「散歩だぁ、田所さん」
村瀬は、この日も日課の散歩へ出かけようとしていた。
彼らの住む霧生という集落は山間に所在し、周辺には山の斜面に作られた棚田があった。
その農道や付近の山道をぐるりと回る。
だいたい三キロ程度の距離で、それが村瀬のいつもの日課だった。
「それにしても村瀬さん、ずいぶんと今日は遅ようさんだが、どうしたのかね?」
村瀬の日課については田所も周知していた。しかし、この日はいつもよりずっと遅い時間である。
その理由について村瀬は次のように述べた。
「……昨日、寄り合いで酒飲み過ぎて寝坊したんだがね。今年の祭の出し物の事で、ちょっと盛りあがってよぉー」
「んなら、無理しねえで今日はやめときなせ。もう日も照って、暑いすけに。倒れたらどうすんだ?」
「大丈夫だぁ。ほれ」
そう言って村瀬はショルダーポーチから保冷カバーに包まれた五〇〇ミリペットボトルを取り出す。
「おお、そんな洒落た物を持って」
その田所の言葉に村瀬は照れ臭そうに笑う。
「昨日は出がけに、急に雨降りだして、面倒くっそなってやめたんが。今日は流石にサボれねぇって」
「頑張りなさるねぇ……気をつけて行ってきなっせ」
「あいー」
右手をあげて門前から去る村瀬。
これが田所にとって、生前の彼と交わした最期の会話となった。