【00】もうめちゃくちゃ
すっかり冬支度を整えた木立の隙間から、わずかに町灯りが窺えるのみで、周囲は暗闇の中に沈んでいた。足元は湿った落ち葉で覆われ、ところどころに少量の積雪があった。
そんな冷え冷えとした風景の向こうから、激しい足音と共に揺れ動く懐中電灯の灯りがやって来る。
「助けてくれ……助けて……」
必死の形相で、そう喚き散らすのは四十近い痩身の男であった。山吹色のモッズコートの裾をなびかせ、薄汚れたトレッキングシューズで地面を蹴りつけるように必死に両足を動かしながら暗闇の中を駆けている。
その彼の瞳は恐怖に濡れそぼり、開きっぱなしの口からは煙のような白い息を吐き散らしていた。頭頂部に髪の毛がごっそり抜けた禿があり、そこからは血が滲んでいた。
名前を小高敬士と言う。
「助けて……助けてくれ……」
彼は後悔していた。引き返すチャンスはいくらでもあった。しかし、それらの分岐を悉く無視して、いつの間にか踏み込んではならない領域にまでやって来てしまった。
「あ、ああっ!」
不意に小高は地表に大きく張り出した山毛欅の根に足を取られて前方につんのめってしまった。左手に握っていた懐中電灯が指先をすり抜けて転がる。そのまま地面に四肢を突いてしまった。
「あっ……あっ……」
慌てた小高は膝を突いたまま右手を伸ばして、転がったまま近くの木の根元を無意味に照らし続ける懐中電灯を掴んだ。そして、そのまま身体を裏返しにして尻を地面に付けながら、背後の暗闇を照らした。すると、その乳白色の光の輪の中に人影が浮かび上がる。
それを目にした瞬間、小高は絶叫した。
「ああああああ……!」
あんなものはあり得ない。存在してはならない。明らかに生きた人間ではない。しかし、それは確実に一歩ずつ小高の元へと近寄って来る。
汚れた白髪交じりの長髪。落ち窪んだ眼窩に収まった双眸は白濁し、肌の色は不自然な朱色に染まっている。
身に着けた裾の長い黒のベンチコートは、まるで西洋の死神がまとう長衣のように見えた。ふらふらと墓地から這い出たばかりのように上半身を揺らし、それとは対照的な確かな足取りで暗闇の向こうから歩み寄る。
「あっ……あっ」
小高は立ち上がろうとしたが、まるで腰から下の全ての神経が切り離されてしまったかのように、足に力が入らない。
迫り来るそれは、だらりと肩からぶら下げた右腕の錆び付いた鉈を顔の高さまで掲げた。
その動作で完全に小高の中の希望的観測は吹き飛んで消える。数メートル目前に迫ったそれは、確実に自分を殺すつもりなのだと……。
どうしてこんな事になってしまったのか。
小高の脳裏にこれまでの経緯が走馬灯のように駆け巡る。
切っ掛けは、懇意にしていた同業者から聞いた奇妙な集団自殺の話だった。ホラー作家であった小高は興味を持ち、その一件を調べるうちに、触れてはならないモノに触れてしまっていたようだ。
予感はあった。しかし、彼の好奇心と功名心が心のブレーキを踏むのを躊躇させた。結果として小高は自分が何よりも愚かである事を解らされる羽目に陥った。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
その謝罪の言葉は誰に向けたものなのか。郷里の千葉の漁港で漁業を営む年老いた両親に対して向けたものか。それとも神か仏か。
何にせよ、この絶望に染まった真夜中の山林で、彼の言葉を聞き届けるものは誰もいないはずだった。
ともあれ、死がもうすぐ小高の元に辿り着く。そして、その重々しい凶刃は、裁きの雷のように彼の脳天に振り下ろされる事であろう。
小高は死を覚悟して諦めた。その次の瞬間だった。
彼の耳に背後から迫る足音が届く。それは凄まじい勢いでこちらへとやって来る。小高は腰を捻って後ろを振り向いた。すると、激しく揺れ動く懐中電灯の灯りが二つ、こちらへ駆けて来る。小高は一縷の望みを掛けて力の限り叫ぶ。
「助けてぇええ! 殺される! 助けてええええー!」
すると、その声が響き渡る。
「おじさん! そのまま!」
それは、額にヘッドバンドライトを巻いた小柄な少女だった。グリーンのダッフルコートを着て、癖のある髪を後ろで結っている。その後ろにはミリタリーコートを羽織った背の高い黒髪の少女が追従して駆けて来る。
例の女子高生たちだ。
もうこの際、彼女たちが何者かなんてどうでもいい。
「たっ、助けてぇ……え? えぇ……」
泣きながら藁に縋るかのように手を伸ばす小高の頭上を、小柄な少女がハードル走の選手のようにびょんと飛び越えたのだ。
小高は、はっとして後ろを振り向くと、小柄な少女は迫り来るそれの前に立ちはだかっていた。そして、小高が「危ない!」と叫ぶ前にその一連の流れは起こった。
それが小柄な少女の脳天目掛けて無造作に鉈を振るった。しかし、その斬撃を彼女は半身になってかわし、まるでブルース・リーもかくやというサイドキックをそれの腹部にぶちかました。それが車に轢かれたかのように吹っ飛ぶ。
「は?」
小高が目を点にしていると、まるで糸に吊られた人形のようにそれが起き上がる。右手の鉈を無造作に構える。
それを見た小柄な少女は、まるで明鏡止水の境地に達した武道の達人であるかのような落ち着きで、ゆっくりと重心を落として拳を構えた。
そして、後からやって来たミリタリーコートを着た長身の少女が、それを見て冷静な口調で言った。
「なるほど。あの肌の色はカルボキシヘモグロビンによる発色ね」
「は?」と小高が聞き返すと、長身の少女は「通常のチアノーゼは暗い紫色になるわ」と言ったので、小高は再び「は?」と言った。
すると、それが小柄な少女に向かって無造作に右手の鉈を振り回し、切り付けようとする。しかし、彼女は華麗なステップで次々にかわしていく。まさに狩人の足捌きである。
それが再び鉈を小柄な少女の頭上に振り下ろす。少女は最小限の動きでかわして、その伸びきった右腕を抱きかかえるように取り、華麗に背負い投げる。
それは受け身も取れずに湿った落ち葉の上に叩き付けられたが、即座に左手を伸ばし少女の足首を掴もうとした。しかし、彼女はそれがまるで解っていたかのように瞬時に飛び退き、距離を取った。
再び拳を構えてそれと見合う。
すると、小高の傍らで静観していた背の高い少女が、まるで何て事のない風に言葉を発した。
「梨沙さん、調子はどう?」
梨沙と呼ばれた小柄な少女は、鉈を振り上げて襲い掛かろうとしていたそれを見据えながら答える。
「物理は通じる」
それが鉈を振るう。その鉈の握られた右手首を両手で掴んで受け止め、逆関節に捻り上げながら彼女は答える。
「でも、とどめは刺せない」
その言葉に小高は困惑する。
「とどめ……とどめとはなんだ……」
彼女は何を刺そうとしているのだ。まさか、本当に止めを刺そうというのか。あの怪物に。
その言葉があまりにも現実離れしていて、小高の脳裏になかなか浸透していかない。
そんな彼を他所に背の高い少女が思案顔で言った。
「やはり、術を終わらせるしかないわね」
背の高い少女が駆け出す。
「ジュツ? ジュツって、それ終わるの? どうやって?」
その小高の疑問に答えるものはいない。代わりに小柄な少女が、再びそれ地面に押し倒した。大内刈りである。そして流れるように腕ひしぎへと移行する。小高はこの信じられない現実を嘆くかのように言った。
「あー、もう、めちゃくちゃだよ……」
彼は思い知る。自分の知覚していた世界など、ほんのちっぽけなものであった事を。そして、ここまでの経緯を振り返る。




