【00】大事件の前触れ
「エロ本だ」
桜井梨沙は田園風景の中、その落ちていたブツを見て淡々と言った。
それは、いわゆる成人雑誌であった。全部で五冊。一昔前にコンビニで売っていたような生易しいものではなく、その手の専門店の深淵でようやくお目に掛かれるような、求道者向けのものであった。まさに人智を超えた禁断の書物というに相応しく、日本が誇るヘンタイ文化の真髄であった。
きっと表紙を見るだけで、万人が感じる事ができるはずだ。人間の本能が覚える根元的な生理的嫌悪を。それはキャベツ畑やコウノトリを信じている純粋無垢な乙女であっても同じであろう。一度も汚れた大地を踏みしめた事のない天使であってもそうだ。その手の知識がなくとも原初の拒否感を覚え、頭蓋の内側を虫唾が駆け抜ける事はまちがいない。
そんな宇宙的猥雑さを誇る恐るべき品物が、明け方過ぎまで降り続いていた霙によって、妖艶に濡れそぼりながら田園地帯と住宅街の境目に横たわる川沿いに生えた枯柳の根元に、打ち捨てられている。
「すべてが同一のジャンル……ずいぶんとキツい趣味ね」
同じく自転車に股がっていた茅野循は、冷静な表情で腰を浮かせてスタンドを立てると、籠の中の鞄からビニール手袋を取り出して装着した。エロ本の元まで行くとしゃがみ込んで、五冊のうちの一冊を慎重な手付きで裏返した。そして、まるで検死をするときのような目付きで裏表紙をめくると、奥付を確認する。続いて他の四冊に対しても同じ動作を繰り返した。
「発刊は二〇〇七年の二月と三月、他の三つはすべて二〇〇八年……」
「循、これは……」
桜井は、地面にしゃがみ込んだまま冷静な顔つきで、濡れそぼったエロ本を睨めつける茅野に向かって語り掛ける。
なぜ、桜井と茅野は野外に落ちているエロ本などに興味を引かれているのか。
これには深い訳があった。時は前日に遡る。
十二月十四日の事だった。
放課後の部室にて、例の千洗ダムに関わる一件についての話を終えた頃だった。部室の戸がノックされて、桜井と茅野が返事をする前に勢い良く開かれた。
その向こうから現れたのは……。
「やっほー。桜井ちゃんに茅野っち。元気にしてたー?」
波打つグレージュの髪に明るめのメイク、身にまとった制服を程よく着崩した少女だった。二人の友人である西木千里である。
「お、西木さんじゃん。ちーっす」
「部室に来るのは久し振りね」
と、二人がそれぞれ言葉を掛けると、西木は勝手知ったる調子でテーブルの空いた席に腰をおろした。すると、茅野が入れ替わるように立ち上がり、珈琲を淹れ始める。
「……貴女がここに来たという事は、期待しても良いのかしら?」
その茅野の言葉に西木は苦笑する。
これまでにも、西木がオカルト研究会へ心霊相談やスポット情報を持ち込んできた事は何度かあった。そのどれもが、舌の肥えた桜井と茅野を大いに満足させるものであった。
「西木さんは“すべらない女”だからねえ」
桜井が実感の籠った声音で言うと、西木は申し訳なさそうに笑った。
「いや、今回はそういうのじゃなくて、ちょっと知恵を貸して欲しいだけで……」
「と、いうと?」
茅野がドリッパーをセットしながら西木に問うと、彼女は来訪の理由を語り始める。
「実はさ、行方不明になった子猫を探して欲しいんだけど」
「にゃんこを?」
桜井が首を傾げる。
西木は静かに頷いた。彼女が部長を務める写真部の一年生で、藤見市の駅裏の外れ……ちょうど、あの呪われた井戸がある辺りに住んでいる子がいるのだという。
「その子の家に行く途中に空き家があって、家に帰るときに必ずその前を通るんだけど、十一月に入ったぐらいのとき、門の向こうに生まれたばかりの子猫がいたんだって」
「毛の色は?」
この桜井の質問に西木は「ハチワレ」と答えてから、話を続ける。
「で、すごく可愛くて、その子曰く、一目惚れしたらしくて家に連れ帰りたかったらしいんだけど、親がどうにも動物嫌いらしくて……」
以前にも猫を飼いたいとねだったらしいが、けんもほろろだったのだという。仕方ないので、家には連れて行かずに、帰り道にスーパーで買ったちゅーるを与えていたそうだ。
「始めは警戒心が強くて、その子がちょっと近づくだけで逃げ出していたんだけど、根気よく接するうちに手を伸ばせば届く位置くらいにまで近づいてきて、ちゅーるも食べてくれるようになったんだって。まあ、まだ触ろうとすると逃げられるらしいんだけど」
「まあ、野生で生きているなら、警戒心が高いに越した事はないわ」
と、茅野は言って、ドリッパーに静かにお湯を注ぎ始めた。西木は彼女の言葉に首肯して話を再開する。
「……で、その子も何とか両親に頼み込んで、この前の期末テストで平均八十五点を取ったら、その猫を飼っても良いって約束を取り付けたの」
「お、それで?」
桜井が身を乗り出して続きを促す。キリマンジャロ豆の酸味豊かな香りが漂う中、西木はその一年生が両親と交わした約束の顛末を口にした。
「それで、その子、見事に平均八十五点の条件をクリアしたのよ。勉強はあんまり得意じゃないらしいんだけどね」
「へえー、それは凄い」
桜井が感嘆した様子でぱらぱらと拍手をした。茅野は「愛ね」と言って珈琲を淹れ続ける。
その喫茶店のベテランマスターのような手際を眺めながら、西木は口を開いた。
「で、いざ、その猫をお迎えしようとしたんだけど、抱こうとしたら嫌がって逃げられちゃって……」
それ以来、その空き家の前を通り掛かっても子猫の姿は見えなくなっていたのだという。
「そろそろ寒くなって雪も降り始めてきたし、霊とか全然関係ないんだけど、二人の力を貸して欲しくて」
桜井は腕組をして気難しげな口調で言った。
「見ず知らずのにゃんこのために苦手な勉強を頑張れるくらいなら良い飼い主になれると思う。きっと、にゃんこも幸せになれるはず。その子になら、にゃんこを任せる事ができる」
その誰目線か解らない相棒の言葉に、茅野が同意して頷く。
「そうね。野良でいるよりは生存率は高くなるわ」
西木が口元を微笑に綻ばせた。
「それじゃあ、お願い! 二人が協力してくれるなら、本当に百人力だよ」
「……で、その一年生の子は?」
桜井の質問に西木が答える。
「学校が終わったらすぐに、その猫を探すって言って帰っちゃったよ」
このとき窓の向こうでは、これから起こる不吉な運命を象徴するかのように、西から次々と流れゆく黒雲が、空を不気味な灰色に塗り潰していた。




