【12】頭部切断の理由
二〇一六年一月十八日だった。
野田真帆絵は雪が止んだ二十時頃に、天原と別れてドーナツショップを後にした。
ショッピングモールの入り口へと向かう途中で考える。
荒神塔子の件をどうするか。
どういう事情なのかは解らないが、これまでシエルだと思っていた丹沢空はシエルではなかったらしい。その事に気がついたのは、ほんの数日前の事だった。
様々な占いに詳しい真帆絵は、当然ながら手相についての知識も豊富にあった。だから、偶然にも彼女の右掌に千金線がある事に気がついてしまった。
思い出してみれば、丹沢は真帆絵が占いをしようと持ち掛けても、頑なに拒否していた。理由については“占いの結果が怖い”というもので、死病を患う者としてはとうぜんの反応であると真帆絵も考えていた。占いの結果で示された運命が“死”であるなら、病と戦う者にとっては絶望に他ならない。
しかし、どうやら、そうではなかったらしい。もしかしたら、逆に占い結果によってシエルではないと疑われるのを恐れていたのかもしれない。
彼女がなぜシエルの振りをしていたのかは、真帆絵にとってはどうでも良かった。
兄の言う通り丹沢の脳腫瘍が嘘であった事が、我慢ならなかった。
きっと、兄は自分の予想が当たった事を喜び、シエルの詐病を見抜けずに信じていた自分の事を子供扱いするのだろう。真帆絵は悔しさで歯噛みして、手袋に包まれた両手をぎゅっと握り絞めた。
いつもそうだった。啓二は真帆絵の事を物事の分別もつかない幼い子供であるとレッテルを貼り、支配しようとする。
そのために人の失敗を、ほんの些細な事でもあげつらい、執拗に責め立てる。何もできないお子さまであると決め付ける。その癖に自分の失敗は頑なに認めようとしない。
それが真帆絵には我慢ならなかった。
荒神塔子に頼んで、シエルの病気が本当であると分かれば、そんな兄を解らせる事ができたのに……。
「何で、嘘なのよ……」
そもそも彼女がシエルの振りをしなければ、こんな事にはならなかった。また兄に馬鹿にされてしまう。
精神的に追い詰められた真帆絵の脳裏に、そのとき狂気という名の天啓が訪れる。
「……そうか。彼女は嘘を吐いていない事にすればいい。別に良いよね」
嘘じゃなかったら、もうすぐ死ぬはずだったんだし。
野田真帆絵は、この事態を打開する唯一無二の方法を思い付いた。そして、こうなってしまった原因を作った兄へ復讐する方法も……。
そして、それを実行するために、まずは踵を返してショッピングモールの工具売り場へと向かった。鋸と鉈と金槌を買う。それから、丹沢宅を目指した。
そうして彼女が丹沢宅の呼び鈴を押したのは、二十時四十分過ぎの事だった。
扉の向こうから現れた丹沢は、すでにパステルグリーンの寝間着姿になっていた。
「あら。どうしたの? こんな日に」
真帆絵は、玄関先で驚く彼女の額に目掛けて金槌を振った。彼女はすぐに意識を失って、下駄箱の角に頭をぶつけながら三和土のタイルの上に倒れ込んだ。
事件が発覚し、警察の事情聴取が一通り済んで、野田真帆絵はいったん実家へと帰った。その翌日、大学の試験があると兄に嘘を吐いて再び義与に戻ると、スクーターに乗って千洗ダムへと、用済みの丹沢の首と凶器を捨てに行った。
山道は沿道に雪がある程度で、走行には何も問題はなかった。ダムまで続く坂道の入り口には、工事用のフェンスが置かれていたが、スクーターからいったん降りてずらした。
スクーターをフェンスの内側に引き入れると、再びシートに腰を落ち着けてエンジンを掛ける。そのまま蛇行した坂道を上ってゆく。
真帆絵は丹沢について、嘘を吐かれていた事には腹を立ててはいたが、完全に憎んでいた訳ではなかった。彼女はシエルではなかったが、丹沢と過ごした日々は、紛れもなく楽しい日々であった。そして、こうなった原因はやはり兄のせいだと真帆絵は考えていた。その兄にも制裁を加える事ができた。
だから、常人にはとうてい理解の及ばない感情ではあるだろうが、丹沢には深く感謝をしていた。彼女の首を遺棄するのに、わざわざ千洗ダムを選んだのは、単なるセンチメンタルな感傷であった。
そんな訳で、彼女の首をダム湖に投げ捨ててからの帰り道であった。
例のおかしなオブジェのロータリーを通り抜けてトンネルに入る。すると、出口から射し込む光の中に、水面に垂らされた墨汁のような黒い人影がとつぜん現れる。
その人影には頭部がなかった。
首のないパステルグリーンの寝間着を着た女。
まぎれもなく丹沢空であった。
ピンクに染まった脂や潰れた筋肉、赤く染まった頸椎が絶え間なく噴き出す血の中にはっきりと見えた。スクーターが進むにつれて、それが近づいて来る。
衝突しそうになり、急いで真帆絵はぎゅっと目を瞑ってブレーキを掛ける。
けたたましいブレーキ音。そして、トンネルに反響したエンジン音だけが耳を突く。
恐る恐る真帆絵は目を開いた。すると、首なしの丹沢は、幻のように消え去っていた。
自分が悪いとは思っていなかった真帆絵は、丹沢が化けて出てくるとはまったく思っていなかった。もしかして、とんでもなく馬鹿な事をしたのかもしれない。このとき、ようやく、そんな後悔が胸の奥で芽吹いた。
しかし真帆絵は、その気持ちを誤魔化すように叫ぶ。
「何よ! 貴女が嘘を吐いたから悪いんでしょ!」
その言葉が虚しくトンネルに反響するだけで、返事はなかった。
以降、真帆絵の前に、視界の隅に、すぐ後ろに、真上に……あらゆる場所に、首のない丹沢が現れるようになった。
野田真帆絵の精神は恐怖と悔恨の念によって磨耗し、彼女は死を選んだ。




