【10】茅野循、無茶苦茶な事を言い始める。
その日の放課後、栄田広華なる人物と合うために、桜井と茅野は銀のミラジーノに乗り込み、義与市へと向かった。そして、かつて天原がアルバイトをしていたショッピングモールのドーナツショップで待ち合わせる。
簡素な白いテーブルを挟んで向かい合った“シエルの親友”こと栄田は、小柄で痩せていた。ワイドパンツにトレーナー 、髪型はセミロングで頭にはニット帽をかぶっていた。
「……そもそも、シエルの病気がなぜ詐病などと言われるようになったのか原因は解っています」
「原因?」
茅野が首を傾げる。その隣では桜井がフードコートのドーナツショップのフレンチクルーラーやハニーディップ、オールドファッションなどを、熱々の珈琲をお供に食らっていた。
その食いっぷりに多少引きつつ、栄田は話を続けた。
「……ええ。あの千洗ダムのオフ会の少し後に、別な闘病ブロガーの詐病が発覚して、それで、けっこうな騒ぎになったみたいで……」
「ああ、なるほど。それでシエルさんも詐病なのではないかと」
栄田は頷いて、彼女もオールドファッションを手に取り口元へと運んだ。噛ると、ぽろぽろと滓が溢れ落ちたので、左手を皿のようにして添えた。そして、左右の掌や右手の指先をおしぼりでふいた。
「そうです。一部の人がシエルを疑い始めたんです。その炎上した詐病ブログの主は、ベッドや点滴などの写真を載せていたそうですが、それは、ぜんぶネットで拾ってきた別人の写真だったそうです。だから、シエルのブログもそうなんじゃないかって。そういった疑惑を持った人の中に強烈なアンチみたいな人たちがいて、たぶん、シエルを殺したのは、その中にいるんじゃないかと」
「なるほど」
と、茅野が言葉を返し、改まった口調で質問を発した。
「……ところで、一つ確認したいのですが」
「はい?」
「貴女は“シエルの親友”ではありませんよね?」
栄田はこの質問には答えなかった。しかし、その表情を見れば、答えは明白だった。桜井も唐突に放たれた茅野の言葉に、口の中に入れ掛けたドーナツをそのままにして唖然としていた。
茅野は右掌を栄田に見せるように掲げ、更に言葉を続ける。
「さっき、貴女がドーナツを食べておしぼりで手をふいたとき、たまたま掌を目にして気がつきました。貴女の手相には、千金紋がありませんでした」
「せんきん……もん?」
桜井が首を傾げると、茅野がいつものように解説し始める。
「かなり珍しい手相よ。親指と人差し指の中心辺りから手首方向に湾曲しながら伸びているのが生命線なのだけど、逆にその始点から中指の付け根辺りに湾曲しながら伸びる線が千金紋ね。別名“成り上がり線”とも呼ばれている。この手相の持ち主は金運に恵まれるらしいわ」
「ふうん」と、桜井がぼんやりとした口調で相づちを打った。茅野は更に話を続ける。
「あのブログの画像に写っていた“シエルの親友”の右手には、この千金紋がありました。しかし、貴女にはなかった。そもそも、天原さんは、丹沢の葬式のときに初めて貴女と出会ったと言っていますが、それもおかしいんですよ」
桜井が思案顔で「どういう風に?」と話を促す。茅野はおかしいと思った根拠を述べる。
「“シエルの親友”は、例のブログで準レギュラーと言っていいほど登場していて、彼女とのエピソードを語った記事は定番となっています。それほど、シエル本人と親しかった。そして、天原さんと真帆絵さんも大学生になってからは、お互いの住居も近くなって、かなり親密な付き合いをしていました。天原さんたちが大学生になって義与で暮らすようになり、丹沢さんが何者かに殺されるまで約一年ぐらいですか? その間、一度も“シエルの親友”と会う機会がなかったというのは少しだけ不自然です」
そこで、茅野は言葉を切ると「まあ、もっとも、単純に顔を合わせる機会がなかった可能性もあったのですが」と付け足した。
すると栄田は、しばらく逡巡した後で口を開いた。
「……そうです。私は“シエルの親友”ではありません。本物の“シエルの親友”は丹沢さんです」
「循……」
桜井は更なる驚愕を表情に滲ませる。一方の茅野は冷静な表情のまま質問を発した。
「じゃあ、本当のシエルさんは?」
栄田は沈痛な面持ちで答える。
「もうこの世にはいません。あの千洗ダムのオフ会の前に……脳腫瘍による頭蓋内圧亢進症が原因で意識が戻らなくなって、そのまま……」
「えっ、じゃあ、あなたは……」
桜井が目を白黒させながら質問を発する。
「本物のシエルの……搗本文華の双子の姉です」
「姉……?」
桜井の言葉に栄田は鹿爪らしく頷く。
「私たちの両親は物心つく前に離婚しました。私は父親に、妹は母親に引き取られたそうです」
栄田の方は父親と、その再婚相手と共に、特に問題のない暮らしを送っていた。しかし搗本文華の方は、そうではなかったのだという。
「これは全部、妹の死後に丹沢さんから聞いた話なのですが、母親は妹が五歳のときに男と行方を眩ましたそうです。そして妹は児童擁護施設で暮らす事になったらしいのですが、そこで丹沢空さんと出会ったみたいですね」
丹沢空は本物のシエルである搗本より三つ年上で、二人は姉妹のような関係だったのだという。
「丹沢空さんは施設を出た後も何かと妹の事を気に掛けていたそうです。妹が脳腫瘍を患っていると解ったとき、丹沢さんがその治療費を出していたらしいですね。彼女は本業のウェブデザイナーだけではなく投資でもうまくいってましたから」
桜井が「流石は千金線紋の持ち主」と言って頷く。茅野も得心した様子で言葉を続けた。
「なるほど。“シエル”という名前は、慕っていた丹沢さんから取ったんですね? そして、天原さんの話では、丹沢さんの家に、ベッドや薬などがあったとありましたが、それは搗本さんが自宅療養で使ったものだった……」
茅野の言葉に栄田は首肯を返した。
「病気が発覚してからは一緒に暮らしてたみたいです。丹沢さんはかなり献身的に妹を介護していたらしいです」
そこで桜井はとうぜんの疑問を口にする。
「でも、何で、丹沢さんはシエルの振りをするようになったの?」
「それは、妹の願いだったそうです」
「願い?」
桜井が首を傾げると、栄田が神妙な顔で頷いた。
「……妹は昏睡状態に陥る前に、丹沢さんにお願いをしたそうです」
桜井と茅野は何とも言えない表情で顔を見合わせたあと、栄田の言葉を待った。
「自分の代わりにシエルになって、オフ会へ行って欲しい。もう一つの願いは、生き別れた姉である私を探して欲しいというものでした。私の方は、丹沢さんの雇った探偵が訪ねてくるまで妹がいる事は知りませんでした」
どうやら彼女はつい数年前までは北海道の帯広で暮らしていたらしい。こちらに移住を決めたのは妹の死が切っ掛けだったのだという。
「……妹の墓守りです」
そう冗談めかした調子で言って、栄田は寂しそうに笑う。
「違う人生を送ったもう一人の自分が命を終えた風景……なんだか良く解らないけど、懐かしく思えて……」
桜井と茅野は何とも言えない表情で顔を見合わせる。それは、この県で生まれ育った二人には良く解らない感覚だった。
栄田は自ら脱線させた話を本筋に戻す。
「……それで、丹沢さんは、最初は断ったそうです。ですが、妹がどうしてもと。この千洗ダムのオフ会は中止にしたくないと」
「なぜ、本物のシエル……妹さんは、それほどまでに、千洗ダムのオフ会に拘っていたのですか?」
茅野の放った当然の疑問に栄田が答える。
「……オフ会は、一年ほど前から計画されていたらしく、二度も延期されていたらしいのです。原因は妹の体調不良でした。それで、あの千洗ダムのオフ会は、寸前まで計画通り実行されるはずでした。妹の体調も万全だったそうですから。しかし、三日前に妹は倒れてしまい、診断の結果、かなり深刻な状態だったらしいのです……。それで、もう自分は長くないので、せめてこれまで応援してくれた閲覧者たちの期待に応えたいと……」
その二つの願いを丹沢が聞き入れた直後に彼女は昏睡状態となり、そのまま逝去したのだという。
そこで栄田は少しだけ滲んだ涙をぬぐい、お冷やを飲んで一息ついた。そして、呼吸を整えてから話を再開した。
「本来なら丹沢さんは、妹の死と共にブログを閉じる予定だったといいます。しかし……」
「言い出せなくなっちゃったんだ」
その桜井の言葉に栄田は頷く。
「シエルのブログには、死の病と戦う彼女の姿に元気付けられたというコメントがたくさん寄せられていました。それと、例の詐病疑惑のせいで、逆に真実を言い出し辛くなったとも、丹沢は言っていました」
「それで、丹沢さんはシエルの振りを続けたと……」
そう言ったあと、桜井は横目で茅野の方を窺う。すると、彼女は少し俯き加減で思案顔を浮かべていた。何かを思い付いたのかもしれない。あるいは思い付く寸前なのだろうか。
いずれにせよ、思考の邪魔をしないように、そのままにしておく事にした。
そして、栄田の話は更に続いた。
「……でも、丹沢さんは、良心の呵責に耐えきれなくなっていたみたいです。すべてを告白すると。その話を聞いたのが、彼女が殺される三日前の事でした」
そうして、丹沢の死から半年後の七月頃だった。
栄田は彼女から受け取ったままだった妹の遺品を整理したところ、ブログサイトのアカウント情報を記したメモを見つけ、シエルが死んだ事を告知してブログを削除したのだという。
話が終わると、栄田は寂しそうに微笑んだ。
「……最後にすべての真相を明かさなかったのは、当人たちがもうこの世にいないなら、別にそうする必要はないんじゃないかって。だから……」
「なるほど」
と、そこで、茅野が視線を上げて不敵に微笑んだ。
「ようやく、四年前の首斬り殺人の真相が見えてきました」
「おっ。という事は……」
その桜井の言葉に茅野は確信を持った様子で頷く。
「ええ。だいたい解ったわ」
桜井梨沙は知っていた。
親友の茅野循の口から、この言葉が放たれたとき。
それは、本当に彼女がだいたいの事を解ったときであるという事を……。
いつもなら、彼女の口から真相が語られるはずだった。しかし、今回はいつもとちょっとだけ様子が違った。
「……それで、栄田さん、貴女は事件の真相を知りたいですか?」
「え? ええ。まあ……」
栄田は戸惑い気味に答える。すると茅野がよく解らない事を言い始めた。
「じゃあ、これから私が事件の真相を語るので、貴女が解決したっていう事にしていただけませんか? 貴女が警察に話を持っていってください。私たちの名前を伏せて」
「え、え? 私が?」
自分を指差す栄田の言葉に茅野は真面目な顔で頷き返す。栄田の表情はますます混迷を深めた。
「えぇ……」
「循、どゆこと?」
桜井ですら彼女の意図を計りかねているようだ。茅野は自らの意味不明な言動の理由を語る。
「すべては篠原さんのためよ」
「篠原さんの?」
「そう。ここで、私たちが、この事件に関わったと知られれば、篠原さんはどう思うかしら?」
「あー」と、桜井は納得した様子だったが、栄田はやはり訳が解らない。茅野は続けて宣う。
「……この前、千洗ダムで篠原さんからメッセージをもらったという事は、彼女は私たちがあのダムにいた事を疑っていた可能性が高いわ。そこで、私たちが千洗ダムと関係した事件を解決したとなれば、その疑いは濃厚なものとなる。そうなると、例の擬装写真の信憑性が下がり、今後は同じ手が使えないどころか、更に彼女の監視の目が厳しくなる事が予想される。そうなったらそうなったで我々の活動がやりにくくなるし、篠原さんも前より忙しくなる。誰も得をしない悲劇的な結末になるわ」
「なるほど」
桜井は理解できたようだが、栄田は心の中で、何を言ってるんだこいつ……と思った。
そして、取り敢えず、彼女が至ったという事件の真相が事実であるのかどうかも解らないので、話を聞いてから判断する事にした。




