【08】荒神塔子の思い出
二〇一六年の荒神塔子は、まだ狐狩りにはなっておらず、マイナーなDVDや怪談ライブに出演したり、雑誌にコラムを寄稿するなどして活動していた。
ときおり、怪異に悩まされたものたちが荒神の元を訪れる事もあったが“本物”と呼べる事案はそれほど多いものではなかった。
それでも彼女は、自身が生まれながらに持ち合わせた能力を、他人のために役立てる事が出来て、生き甲斐を感じていた。
さておき、年が明けてようやく正月ムードが落ち着いてきた頃合いだった。
そのときの荒神は、芸能人のゴシップから風俗情報、オカルトネタまで、何でも扱う季刊誌の心霊コーナーの原稿を書き終えたばかりだった。
所沢にある自宅の書斎で郵便物を整理していると、出版社から送られてきた封筒が目に入る。中身は転送された読者からの手紙だった。しかし、その封筒の表に記されていた宛名は『洗上透子』となっている。荒神の本名であった。
送り主の名前は野田啓二。住所は日本海側の地方都市であった。最初は首を傾げたが記されていた住所には見覚えがあった。その累市という土地は、かつて荒神が小学三年生から卒業までの短い期間暮らしていた場所だった。
その記憶に引っ張られるように野田啓二の事も思い出す。
「あの野田くんか……」
思わず笑みが溢れる。
彼は小学五年生と六年生のときのクラスメイトで、家が近く、登校時の班が一緒だった。なかなか馴染めなかった荒神に、何かと良くしてくれた。
荒神は書斎机の引き出しにあったペーパーナイフを手に取り、丁寧に封筒を開ける。すると、中には便箋が一枚入っており、そこには力強い肉筆の文字が並んでいた。
手紙の内容は、いかにも使いなれていない時候の挨拶から始まり、荒神への雑誌やDVDでの活動についてと、自身の近況報告が並ぶ。それによると、彼は地元の米菓工場に勤務しているらしい。そうして手紙は本題へと移る。
どうやら、彼は何やら困った事があり、それについて荒神に相談があるとの事だった。
詳細は詳しく書かれていなかったが、どうやら彼の妹の真帆絵について相談があるようだ。彼女は一学年下で、兄の後ろにくっついていた甘えん坊という印象が残っていた。
何やら込み入った話らしく、直接電話で話したい旨と、彼のものと思われる携帯電話の番号とメールアドレスが記されていた。
因みに野田兄妹は、当時から荒神に本物の霊能力がある事を知っており、その力を信じていた。つまり、わざわざ何年も会っていない自分に手紙を送ってきてまで相談したい事というのは、そういう事なのだろう。
荒神はさっそく野田にメールを送ったあと、彼と電話で話をする事となった。
受話口の向こうから、声変わりしてすっかり別人のようになった彼の声が聞こえてきた。
それから、ぎこちなく、堅苦しいやり取りを数分間行った後、野田が少しだけ砕けた調子で話を切り出してきた。
『ああ、忙しいだろうに。とつぜん、本当に申し訳ない。それで、相談の方なんだが』
「いいえ。仕事が一区切りついたところだったからちょうどいいわ」
荒神も砕けた口調で応じると、野田は『どこから話せばいいのか……』と、たっぷり逡巡して語り始める。
『実は、真帆絵が最近、おかしなブログに入れ込んでいて……』
「おかしなブログ?」
まったく話が見えず、怪訝な顔で荒神は聞き返した。
『……脳腫瘍を患った女性の闘病ブログなんだけど』
「ああ……」
『“シエルの癌殲滅戦記”ていう……』
そういうブログがある事は知っていたが、話がさっぱり見えてこない。荒神は野田の話にじっと耳を傾ける。
どうやら真帆絵は、そのブログにコメントを書き込んだりするうちに、ブログ主や他の閲覧者と親交を持つようになったのだという。オフ会にも参加したらしい
「それの何が問題なの?」
この質問に啓二は、わずかに声を震わせながら答える。
『その脳腫瘍っていうのが、どうにも嘘っぽいんだ』
「ああ、なるほど……」
何となく話が見えてきた荒神は、野田に質問する。
「……で、詐病だと思った根拠は?」
『そのオフ会の写真を見たんだ。どう見ても、病人に見えなかった。オフ会は野外でバーベキューだったんだけど、そのシエルっていう女は、いかにも健康そうだった。俺のじいさんの事、覚えてる?』
「……ええ」
と、荒神は記憶を探りながら返事をする。
あれは小学三年生の頃の夏休みだった。野田兄妹と他のクラスメイト数名で、日が傾き始めて涼しくなった頃に、近所の公園で野球をしていたときの事。
野田兄妹の祖父の善吉が買い物帰りに近くを通り掛かり、その公園に顔を出した。このとき荒神の目には、彼の頭部にまとわりつく黒い影が見えた。
それまでは自分の能力の事は秘密にしていたのだが、あまりにも心配になったので野田兄妹に警告した。
その翌日、善吉は脳腫瘍で倒れ、この出来事がきっかけとなり、野田兄妹は荒神の能力を知る事となった。
『……うちのじいさんは、あの日倒れて、病院に運ばれて、家に帰ってきたときは、別人のようになっていた。寝たきりで、飯もろくに食えなくなって、げっそり痩せていた。でも、あのシエルとかいう女は、どちらかというとふっくらとしていた』
「それだけの理由で……?」
野田の主観なのではないか。そもそも、脳腫瘍を患っていたとしても、ある程度は普通に生活しながら闘病している人はたくさんいる。やはり専門的な知識がなければ、何とも言えないのではないか。
そう意見しようとしたが、野田が先んじて声を上げた。
『……それに、俺以外にも、おかしいと思った人はいて、SNSや匿名掲示板なんかじゃ、けっこう騒ぎになっている』
SNSや匿名掲示板の情報こそ、信用に足りる情報ではない。どうやら問題なのは、妹ではなく兄の方らしい。
「野田くん」
『何?』
荒神は野田をなだめるような優しい口調で聞いた。
「妹さんは、そのブログの女性から金銭を要求されたりしたのかしら?」
『いや、俺の知る限りではない』
「じゃあ、そのオフ会の会費が高額だったとか」
『いや。三千円だった』
バーベキューをするに当たって、それほど高い金額とは思えない。
「なら、良いんじゃないかしら」
『良いって?』
「別に妹さんが何かの犯罪に巻き込まれている訳ではないなら、放っておけば……」
『いや。今は違っても、そのうち金銭を要求されたり、もしかしたら、もっと酷い目に遇うかもしれない。変なカルトやマルチに勧誘されたり……真帆絵はまだ子供だから、そういう危険がある事を知らない』
荒神は呆れる。
妹の真帆絵は今年で十九歳である。分別のつく年齢だ。そもそも野田とも年齢が一つしか離れていない。
やはり、何とかしなければならないのは、兄の方らしい。
荒神が「野田くん」と改まった口調で言葉を発すると、同時に彼が声を上げた。
『言いたい事は解る。確かに心配しすぎかもしれないが、あの女が嘘つきだという証拠はちゃんとある』
「何なの?」
と、聞き返された啓二は、ネットで指摘されていたシエルの疑わしい点をいくつか上げ始めた。しかし、荒神からすると、それらはどうとでも取れるような事ばかりだった。
『……その事を妹に指摘しても、ぜんぜん信じてくれない。ネットの情報なんて嘘だって言って。だから、君の力で、その女が本当に病気を患っているのか、確かめて欲しいんだ』
何となく、そんな流れになりそうな事は話の途中で予感していたが、そこまでする必要があるかは疑問であった。
「病院の診断書を要求すれば……」
『もう断られたよ。怪しいだろ?』
「そうなの……」
荒神は苦笑しながら気がつく。そもそも病院の診断書を本当に見せたところで野田は、それを本物であると信じたりはしないだろう。
『君に相談する事は妹にも話してある。妹も君の言う事なら信じると言っている。頼む。お金が必要なら、ちゃんと用意するから』
正直、そのブログが嘘であろうと、本当であろうと、荒神としてはどうでも良かった。
しかし、結果はどうあれ、それで兄妹の気が済むなら、それに越した事はないだろう。何も問題がない事を判断するのも霊能者の仕事だ。
「お金はいらないわ。昔のよしみで」
『いいのか?』
と、野田は嬉しそうに返事をした。
この頃の荒神の能力は、精度は高いが、力はそれほど強くなく、写真からでは対象の健康状態を視る事ができなかった。
いろいろと話し合った結果、荒神が直接出向いて、そのブログ主と会う事になった。
ブログ主のシエルとは、真帆絵が話をつける事になった。
それから間もなくして大雪でシエルの鑑定が延期となり、その翌日にシエルだと思われていた人物が急逝したという連絡を野田からもらった。
何かあったら頼むというだけの連絡が一つあったきり、そのまま野田啓二とは疎遠になってしまう。
荒神も情報を集める程度の事はしたが、それ以上は事件に関わる理由がなかったために深入りはしなかった。