【03】ニアミス
その日は朝から快晴だった。
桜井と茅野は銀のミラジーノに乗り込むと県北にある千洗ダムを目指した。
車窓を流れる風景は市街地から田園風景へ。既に稲刈りを終えた田んぼは乾いた泥が剥き出しになった冬の装いとなっていた。
その侘しさを感じる光景の脇を通り抜けて、紅葉に暮れた木々の合間を蛇行する山道を進んだ。そうして長い上り坂の先にあったトンネルを抜けると辿り着く。
中央に二匹の蛇が絡まったようなオブジェが配置されたロータリーと、冴え冴えとした青い空を映す湖面。その膨大な水を抱き止める雄壮なコンクリートの壁。
千洗ダムである。
「ひゃー、良い景色だね」と、桜井がハンドルを左に切りながら感嘆の声を上げた。
「取り敢えず、道なりに進んでみて、それから芝生の広場で、ご飯にしましょう」
「らじゃー」
と、桜井は答え、ロータリーから左側に延びた道を行く。やがて銀のミラジーノは、芝生の広場の脇を通り過ぎると、対岸へと辿り着いた。
道は反対側の天端道路の入り口の前で行き止まりになっていた。この場所にもロータリーがあったが、中央には奇妙なオブジェは置かれておらず、縁石で丸く囲まれた小さな植え込みがあるばかりだった。
そこで、いったん車を停めると二人で外に出て、桜井はネックストラップのスマホで、茅野はデジタル一眼カメラで、ダム湖やダムそのものを闇雲に撮影しまくる。何か心霊写真でも撮れていやしないかという腹づもりであった。
そうして気が済むと再びミラジーノに乗り込み、来た道を戻る。
「少し早いけれど、途中にあった芝生の広場でお弁当にしましょう」
「今日はサンドウィッチと揚げ物多めだよ」
などと会話をしながら、道を挟んで広場とは反対側にあった駐車場に車を乗り入れる。そして、隅っこの空いていたスペースに車を停める。二人で車を降りてトランクから荷物を取り出して芝生へと向かおうとした。
すると、桜井がそれに気がつき立ち止まる。
「ねえ、循」
「何かしら?」
「あれって篠原さんじゃない?」
それは、広場の奥だった。こちら側に背を向けている黒いライダースーツの女性がいた。椅子に座った彼女の右手側にはガスコンロとケトルがあり、左側にはバッグが置いてある。
距離もあるし、顔は見えないが髪の長さや体型はまさに篠原のような気がした。
「まさか」
と、茅野も立ち止まり、デジタル一眼カメラのファインダーを覗き込み、レンズの倍率を上げた。すると、ちょうど左側のバッグから水の入ったペットボトルを取り出したところで、そのとき横顔を窺う事ができた。どう見ても篠原結羽である。
「梨沙さん、篠原さんで間違いないわ。どうやら休暇を楽しんでいるみたい」
「それは、不味いね。あたしたちが出てきたら、篠原さんの気が休まらないよ」
「ええ。すぐにこの場を離れましょう」
桜井と茅野は踵を返すと、銀のミラジーノに戻った。桜井は急いで車を発進させる。
そうして、ロータリーへと戻りトンネルを潜り抜け、長い坂道を下り始めたときだった。茅野のスマホにメッセージが届いた。
「梨沙さん!」
「何?」
「篠原さんからよ。『今、あなたたち、何をしているの?』だって」
「まさか、気がつかれた?」
さしもの桜井も焦りの表情になる。しかし、茅野は冷静だった。
「こんなときこそ、昨日スタバで撮った写真の出番よ」
そう言って彼女はスマホのアプリで素早く昨日の写真のExif情報の日時を編集すると、篠原に送る。
すると、すぐに『なら良いんだけど。ごめんなさい。邪魔して』と篠原からの返信があった。
それを見た茅野はほっとした様子で微笑んだ。
「どうやら、何とか誤魔化せたようね」
運転席の桜井も安堵の笑みを浮かべる。
「流石は循だよ。まさか、昨日のあの写真が本当に役に立つだなんて」
「あらゆる局面を想定するのは兵法の基本よ」
茅野は右のこめかみを人差し指で突っつき、得意気に微笑む。桜井は一つ溜め息を吐き出してから言う。
「しかし、まさか篠原さんと鉢合わせるなんて。激温スポットだと思ったら、ここ最近でいちばん焦ったよ」
「そうね」
「で、どうする? この後」
「ここに来る途中に森林公園の看板があったわ。そこで、お昼ご飯にしましょう」
二人はそのままくだんの森林公園へと向かった。
『千洗森林公園』は橅や椚に囲まれている広々とした盆地にあった。
盆地の縁にある駐車場に車を止めて、林を割って底へ延びる下り坂を行くと、次第に地面が平らになり景色が開ける。その坂道の出口の左側にログハウス風の管理小屋があり、右側の土手に湧水の汲み場があった。
どうやら看板によると、キャンプも出来るらしく宿泊する場合のみ、サイト料を払う仕組みらしい。
桜井と茅野は、その脇を通り抜けて適当な芝生の上でレジャーシートを広げた。
桜井は腰を落ち着けると、風呂敷に包まれていた重箱を広げる。
その中には、卵やハムのサンドウィッチ、冷めても美味しい味付けのフライドチキン、タコさんウィンナー、コロッケ、ミートボール、かぼちゃサラダ、キャロットラペがところ狭しと詰め込まれていた。
さっそく桜井はくまさんの水筒からほうじ茶を注ぎ入れ、自分で作ったサンドウィッチを摘み始める。
茅野もサンドウィッチを手に取りつつ、デジタル一眼カメラのサブディスプレイを覗きながらダムで撮影した写真を確認し始めた。
そして、それは、桜井が二つ目のサンドウィッチに手を掛けた直後の事であった。茅野が不意に声を上げる。
「梨沙さん……これを見て欲しいのだけれど」
「どれ」
桜井はサンドウィッチをもぐもぐとやりながら、差し出されたデジタル一眼カメラのサブディスプレイを覗き込んだ。
そこに表示されていたのは、何もおかしなところのない写真であるかのように思えた。
手前にガードレールがあり、その向こうには広々としたダム湖が映り込んでいる。その湖面に近い場所だった。黒い汚れのようなものがある。
「これは……?」
桜井がその汚れをじっと凝視すると、徐々に像が結ばれていく。
それは、湖面に近い位置で浮かびながら、カメラを見上げる長髪の女の生首に見えた。距離があり解像度も低く、人相は窺えないが、何かを訴えるように大きく口を開いている。
「循、これって、心霊写真? 女の生首が浮いてる?」
そう言って、桜井がなぜかトスバッティングのジェスチャーをすると、茅野は確信に満ちた表情で頷く。
「どうやら、そのようね」
「九尾先生に見せてみようよ!」
と、桜井が言った後で、茅野は首を横に振った。
「駄目よ。九尾先生に、この写真を見せれば、篠原さんに伝わる恐れがあるわ」
「あー……」
桜井は得心した様子で相づちを打った後、質問を続けた。
「なら、どうするの? 流石に九尾先生抜きじゃあ、この首の事は解らないよ」
すると、茅野は悪魔のように笑う。
「実は、この写真を見て、ある事を思い出したの。私は、この生首が誰か知っているかもしれない」
「どゆこと?」
不思議そうに首を捻る桜井に向かって、茅野は言った。
「丹沢空。職業はフリーのウェブデザイナーで投資家でもあったみたい。けっこうな資産を持っていたそうよ。県北で発生した殺人事件の被害者よ。発見時、彼女の遺体には頭部がなかったらしいわ」
「頭部が……なかった……」
桜井は唖然とした様子で、その猟奇的な言葉を繰り返すと、勢い良く手に持ったままだったハムサンドをかじった。




