【01】あいつらの気配
二〇二〇年十一月最後の日曜日の昼下がりの事。
山粧う蛇行した坂道を進むのは、黒のヤマハMT-09であった。その87.5kWの鋼鉄の馬を駆るのは、漆黒のライダースーツとヘルメットをまとった女だった。
“あいつら”担当官の篠原結羽である。
彼女はようやく先の高柳邸での一件と、八十上村の一件についての報告書を書き終わり、事後処理に関する様々な手続きを千手観音のごとき手際で一段落させ、久々に余暇を過ごしていた。
もちろん“要監視対象”である“あいつら”が何かを起こせば、即座に対応に当たらなければならない。しかし、この時期といえば、まともな高校生なら期末テストがあるし、まともな高校三年生ならば、受験勉強の追い込みに忙しいはずである。従って“あいつら”もしばらくは、大人しくしているに違いないという、祈りにも似た希望的観測を抱いていた。その間に趣味であるツーリングを楽しむつもりである。
彼女は父親の影響で、小さな頃からモーターサイクルに憧れがあり、警察学校に入学したのも、白バイ乗りになるためであった。しかし、彼女はけっきょく悩んだ末に、その道を選ぼうとはしなかった。
大好きなバイクは、仕事にせずに趣味の範囲で純粋に楽しみたいという思いが強くなったのと、警察という職務に白バイに乗ること以外の意義とやりがいを見いだしてしまったからだ。
しかし、そんな彼女も、訳の解らないぐらいハイスペックで頭のイカれた女子高生の尻拭いに奔走する事になろうとは、当時は思ってもみなかった訳だが、それはさておき……。
この日の彼女の目的地は、県庁所在地から数キロ離れた場所にある千洗ダムであった。そのダム湖の畔にあるキャンプ場で、珈琲を淹れてゆったりとした時間を過ごすつもりだった。
適当にぼんやりとしたあとは帰路に就き、途中の温泉で身体を温め、日没前には家に帰る予定となっていた。
もう、彼女の心は立て続けに“あいつら”が掘り返してきた事件の後始末で疲弊しきっていた。この日は何も考えず、是が非でも休む。その決心は固かった。
そんな訳で彼女は長い上り坂の先にあるトンネルを潜り抜けて、二匹の蛇が絡みあったような奇妙なオブジェが中央に置かれたロータリー前へと辿り着いた。
ロータリーの右側にはダムの管理事務所やダム壁の上部に横たわる、天端道路の入り口へ延びた道があり、左側にはダム湖の外周に沿って延びた道があった。
篠原は愛車に跨がったまま、その左側の道へと進んだ。そうして、道なりに進んでいると、すぐに右の沿道とダム湖の間に広がる芝生のスペースが見えてくる。
そこでは、何組かの家族やカップルと見られる男女が、レジャーシートを敷いたりして、余暇を楽しんでいる様子が見られた。
篠原はヤマハMT-09を道の反対側にあった駐車スペースの隅に停めて、リアキャリアにロープで固定していた荷物を持って芝生の方へと向かった。
上空から見下ろせば、くびれの少ない瓢箪型をしているという、ダム湖を望める格子の柵の前で折りたたみ椅子を開き、珈琲を淹れる準備をしていく。
まずは来る途中にあった森林公園で汲んできた水筒の中の湧水をケトルに入れて、コンロに掛ける。それから、カップにドリッパーをセットして、キャンプ用のミルに、小瓶の中のアラビカ豆を入れた。
ハンドルを回して丁寧に挽く。その後は、しばらく、お湯が沸くまでダム湖の景観を楽しんだ。
風は殆どなく、湖面には、白い雲とその間から覗く青空、そして対岸の錦秋に染まった木々が映り込んでいる。
陽射しは頬に染み渡るような、ちょうど良い暖かさで、久々に疲れた心へと安らぎをもたらしてくれていた。
そんな折だった。
近くで湖面をバックにスマホで写真を撮り合っていたカップルの話し声が不意に耳を突いた。
「……なあ、ここのダム、なんで“千洗”ていうか知ってる?」
その男の質問に女が「ううん、知らない」と答えると、彼は得意げな様子で語り始める。
「本当はさ、“千”の“洗”じゃなくて、“血”の“洗”って書くらしいぜ。血液の血」
「えー……」
と、女が声をあげる。男は更に話を続けた。
「ここの周囲で合戦があって、たくさんの人が死んだらしい。でさ、出るらしいよ、このダム」
「何が?」
女が不安げに聞き返すと、男はおどろおどろしい声音で言った。
「貞子みたいなお化けが!」
「きゃー、嫌だもう……」
と、女が声をあげた。
そこで、篠原はふと不安になる。
今の話が本当だとすれば、ここも心霊スポットという事になる。もしかして、あいつらが……。
はっ、として篠原は椅子から腰を浮かすと周囲を見渡した。
すると、それは左眼の視界の端だった。
駐車場から出て帰路に就くところであろう車が、トンネル前のロータリーの方へと向かっていた。その車体を見たとたん、篠原は青ざめる。
何とその車種は銀のミラジーノであったからだ。
「まさか……」
篠原は目を凝らすが、ずいぶんと距離があり、角度も悪かったこともあって、ナンバープレートを確認する事ができなかった。その銀のミラジーノは、そのままトンネルの方へと消えて行った。
「まさか……まさか……」
偶然同じ車種という事もなきにしもあらずであるが、それほど良く見掛ける車ではない。しかも色まで同じである。篠原はスマホを手に取って、慌てた様子で“あいつら”へとメッセージを送る。
『今、あなたたち、何をしているの?』
すぐに返信がくる。
『今はテスト勉強よ。しばらくは大人しくしているから、安心して頂戴』
そのメッセージを見て訝しむ篠原であったが、続いて送られてきた数枚の添付画像を見てほっとする。それは、茅野の親友である桜井と、どこかの珈琲ショップで撮影した自撮り写真らしい。テーブルの上で広げたノートの写真もあり、その隅には、この日の日付と“テスト勉強中! 茅野&桜井”という、いかにも女子高生らしいカラーペンで記された文字があった。
一瞬、Exif情報を確認しようとしたが、思いとどまる。流石にさっきのミラジーノがあいつらのものならば、こんな写真をすぐに用意する事は出来ないであろう。
「……そうよね。あの二人だって、普通の女子高生だしね」
そうこうするうちにケトルが白い湯気と共に音を立て始める。
篠原は『なら良いんだけど。ごめんなさい。邪魔して』と茅野に返信をして、再びゆったりとした気分で休暇を楽しみ始めた。




