【08】後日譚
結局、二人は悩んだ末にノートを処分する事にした。
きっと、それが志熊弘毅の望みであると判断したからだ。
その日は既に遅い時間になっていたし、精神的にも肉体的にも疲れていたので段ボール箱を持って帰り、翌日の放課後に焼き芋パーティでもしようという事になった。
そんな訳で翌日。
二人は学校が終わると例の段ボール箱と芋一袋に飲み物を持って自転車で、一番近い藤見川の河原へと向かった。
この川は黒谷岳の山中から藤見市内を横切る二級河川だ。
場所によっては広々とした河原があり、夏場では水遊びに興じる子供たちや、キャンプを楽しむ家族連れの姿が見られる。
しかし、この時期の河原は人気がまったくない。
土手を被う背高泡立草の群れの中で、芒や猫じゃらしが頭を垂らしている。
そんな風景の中、桜井と茅野は河原の石で竈を作り、乾燥した流木や枯れ草で火を起こす。
それからアルミホイルに包んだ安納芋を焚き火にくべて、ノートを一冊ずつ燃やしてゆく。
「……私はね、梨沙さん」
茅野が燃えたノートを火掻き棒で突っつきながら言う。
「……あの、小説を馬鹿にはできないわ。確かに正直クソだったけれど……色々と思わず突っ込んじゃったけど……それでも、私はあれを笑おうとは思わない」
「あたしも。だって、こんなに沢山のノートを……いつから書き続けていたのか知らないけど、きっと大好きだったんだと思う。小説を書くのが」
桜井が新たなノートを焚き火にくべた。
「誰に誉められるでもなく、もちろんお金になる訳でもなく、ノートという閉じた世界の中でずっと自分の物語を書き続けた……これって凄い事よ。今なら『小説家になろう』を始めとした小説投稿サイトが沢山ある。そういったところにアップすれば、少なからず誰かに読んでもらえるかもしれない。多くを求めなければ、誰だって自分の物語を誰かに読んでもらえる」
「うん」
「でも、志熊さんはそうしなかった。それはきっと、誰かに読んでもらう為じゃなくて、小説を書くのが目的だったから」
「きっと、そうなんだろうね」
また桜井がノートを投下する。茅野が火掻き棒で突っつく……。
またひとつ灰になる。
すると、茅野がとつとつと語り始めた。
「……一九七三年にアメリカで病院の掃除人をやっていたヘンリー・ダーガーという男が亡くなったのだけれど……その人も半世紀以上に渡って、ずっと誰にも見せずに自分だけの壮大な物語を書き続けていたの。内容は正に彼の妄想を塗り込めたような、そんな物語だったというわ」
「ふうん」と、ぼんやり揺らめく炎を眺めながら桜井が返事をする。
「そのダーガーの物語は、彼が住んでいたアパートの大家に発見されて、後にアウトサイダーアートとして高い評価を得るにいたった」
「じゃあ、この志熊さんの作品も、小説家になろうとかに投稿されれば、評価されたかな?」
茅野は首を横に振る。
「解らないわ。解らないけれど、私は本人の意向を無視してまで、この作品を世に出そうとは思わない」
「そだね。あれだけ激しく抵抗していたんだもの……」
桜井は前日の現象Xとの攻防を思い出して微笑む。
「……それに、誰にも知られずに消えてゆく物語っていうのも、美しくて素敵だと思うわ。それはきっと、誰の評価にも晒されていない純粋な物語だって事だもの。……でも、だからこそ、せめて彼がこの作品に傾けた情熱は、私たちが覚えていてあげましょう。私たちが、このノートを開いて、彼の物語をほんの少しだけ、汚してしまった分くらいは」
「うん。よく解らないけれど、何となく解るかも」
そして、茅野のポケットの中でスマホのタイマーが鳴り響く。
「そろそろね」
そう言って、芋を焚き火から掻き出した。
軍手をはめた桜井が、アルミホイルに包まれた芋を「あつ、あつ」と言いながら転がす。まるで毬にじゃれつく猫である。
今回、二人が買ってきた安納芋は、普通のさつま芋よりも身が柔らかく甘味が強い。色も橙色に近い。
二人は少し冷ましたあと、アルミホイルをむいて良く焼けた芋にかじりつく。
「おいしー」
「いけるわね」
そうして、ほうじ茶とドクターペッパーで乾杯するのだった――
まるで世界蛇の背骨のような稜線を越えると、遥か彼方に霞む地平線が見えた。
ミネルバの梟に跨がった光輝は目を細める。
その彼の腰に華奢な腕をしっかりと回しながら、魅零は目線を下げて呟いた。
「……きれい」
眼下に広がるは緑の草原。
風が優しく地をなでると、低木や草花がくすぐったそうに葉や枝を揺らす。
水牛の群れが、上空を過ぎ行くミネルバの梟を見あげている。
立派な角を持つ鹿たちが錘行を織り成しながら駆けてゆく。
その数メートル先の草むらには、牝獅子たちが身を潜め待ち伏せしていた。
すべては生命の営み――。
それらの上空を悠々と通りすぎる光輝と魅零。二人は悪の百八神将をすべて倒し、万物魔王をどうにか彼方へと退けた。
それからナイアラトホテプを名乗る謎の男に導かれ、この並行世界へとやってきたばかりだった。
「……素敵な世界ね。恐ろしい邪神たちの気配も今のところは感じないわ」
「ああ。だが、油断はしない方がいい。あの万物魔王も、まだ滅んだ訳じゃない」
光輝は空を見あげる。
彼らの頭上には、綿のような雲海が物凄い速さで北北東へと流れていた。
「……きっと、最果ての宇宙で、俺たちの運命を嘲笑っているに違いない」
その彼の言葉を聞いて、魅零はクスリと微笑んで鼻を鳴らす。
「もう。光輝は心配症なんだから……」
「用心に越した事はないさ。俺はもう二度と、君を失いたくないんだ」
「光輝……」
彼の腰に回した魅零の腕の力がよりいっそう強まる。
光輝はミネルバの梟の手綱を強く引いた。
「……ひとまず、あのナイアラトホテプとかいう男の言っていた“忘却を禁じられた都市エリン”に向かおう」
「ええ」
そして梟の翼は大きくはためき、光輝と魅零は雲海を突き抜け、高く……高く……舞いあがった。
光輝は遠い目で最愛の人との未来を見据える。
それは未来永劫続いてゆく、悠久の物語だった。
「俺たちの冒険はこれからだぜ!」
それは、夢か現か幻か――
(了)
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