【06】アル・アジフ
志熊弘毅は、その日の早朝起きると、いてもたってもいられなくなり、書斎机に向かって納戸の奥に隠していた妻にも内緒のそれの頁を開いた。
もう辛抱堪らなくなってしまったのだ……。
机の上に広げたそれを瞬きひとつせずに凝視しながら、懸命に右手を動かす。
興が乗ってきた所で、時計を見ると既に出勤時間が差し迫っていた。
まだパジャマのままで、朝御飯も食べていない。
これは不味いと志熊弘毅は急いでそれを納戸にしまう。納戸の扉に施錠する。
そして小指ほどの納戸の鍵を、しまおうと再び書斎机の方へ向かおうとしたその時だった。
部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「あなた? そろそろ起きないと……」
妻の美鈴だった。
「あなた? 起きてるの!?」
「あ、わっ……ちょっと、待ってよ」
志熊は慌ててしまい、手に持っていた鍵を落としてしまう。
更に運の悪い事に落とした鍵が右足の爪先に当たる。しかも思わず蹴ってしまった。
床をするすると滑った鍵は書斎机のステップの下へと潜り込んでしまう。
おろおろとする志熊。
「あなたー!?」
訝しげな妻の声。
「わっ、解った。今行くから……」
扉に向かって声を張りあげる。
志熊は結局、鍵を拾うのは仕事から帰ってきてからにする事にした。
急いで出勤の準備をする。結局、慌てた甲斐あってか、いつも通りの時間に出勤できた。
その日は晴れていたので、学校まで歩いてゆく事にした。
そして、この日の帰り道だった。
志熊はトラックに轢かれて死んだ。
二人は茅野の提案で本棚から百科辞典を一冊運び出す。
そして、その百科辞典に荷造り用のビニールロープを巻きつけて縛りあげた。
縛ったロープの端は一メートルぐらい余しておく。
「恐らくこの百科辞典は、一冊あたり一・五キロぐらいあるわ。破壊槌としては充分。……梨沙さん」
「がってん」
桜井は手作り破壊槌で廊下の壁を思いきりぶっ叩いた。
その壁の裏側は、ちょうど納戸の中だった。
二人は現象Xの力が届かない部屋の外から壁をぶっ壊して納戸へと辿りつくというパワープレイに出る事にしたのだ。
凄まじい打撃音。
震動で天井から埃が降りそそぐ。
それでも構わずに桜井が二度、三度と壁をぶっ叩くと、珪藻土の壁が砕け始める。
凄まじい埃と砕けた壁の破片が舞い飛ぶ。
因みに二人は、口元を茅野の持っていた防塵マスクで覆っていたので、粉塵による被害は最小限に押さえられていた。
そして真っ白に染まった視界が元に戻った頃……。
壁には直径三十センチほどの穴が空いていた。納戸の内部としっかり貫通している。
「やったあ!」
桜井が破壊槌を放り出し、飛びあがって喜ぶ。
茅野は冷静にペンライトで穴の中を照らす。
その光に写ったのは、いくつかの段ボールだった。
「取り合えず、この穴をもう少し広げて、中の物を全部取り出すわよ。……でもまあ、その前に少し休憩しましょ」
そう言って茅野は、ビニールロープやガムテープと共に買っていたサイダーを桜井に渡した。
「ありがと」
さっそくキャップを捻り、ごきゅごきゅと喉を鳴らして飲み始める桜井。
茅野も甘い缶珈琲のリングプルを引いた。
休憩が終わり穴を広げ終わると、二人は中の段ボールをすべて廊下の方へと出してゆく。
当然、穴から納戸の向こうに手を入れた瞬間に例の現象が発現するかもしれないという事で、この家に残っていたモップやほうきを巧みに使い、どうにか段ボールを引き寄せて廊下に出した。
そして、すべての物を廊下に出し終わると、一つずつ中身をあらため始める。
「うーん。特におかしな物はないね」
桜井がやや期待はずれと言いたげな表情でぼやく。
段ボールの中に入っていたのは、衣類や教科書、専門書、使われなくなった電化製品などだった。
別段、変わったところはまったくない。
「これで、最後ね」
そして、茅野がその段ボール箱を開けた。
すると、その中には……。
「梨沙さん」
「ん、なーに?」
「これを見て……」
桜井も箱の中を覗き込んだ。
「何これ? ノート?」
それは無数のノートだった。確実に百冊以上ある。
同じメーカーの大学ノートが多かったが、中にはお洒落な雑貨屋で売っていそうな物や、児童が使う学習帳などもあった。
桜井がその中のひとつを手に取る。すると、その表紙には……。
『AL.AZEF【0039】』
と、記されていた。その不吉さを感じるアルファベッドの羅列は、箱の中にしまわれていたノートのすべてに刻まれている。
「循、これ、何て読むの?」
「アル……アジフかしら? ただスペルが違うけれど。本来なら“E”ではなく、“I”よ」
「そのアルアジフって何なの?」
茅野は桜井の質問に淀みなく答える。
「アル・アジフは、アメリカの怪奇小説家ハワード・フィリップ・ラヴクラフトの作品に登場する書物の名前よ。狂えるアラブ人のアブドゥル・アルハザードが記したとされているわわ。“ネクロノミコン”といった方が有名かもしれないわね」
「アブドゥルさん……」
ノートをまじまじと見詰める桜井。
「まあ、あくまでフィクションの中の書物だけれど」
「書斎の主である志熊弘毅さんは、このアル・アジフを隠しておきたかったのかな?」
「多分、そうだと思うけど……」
「因みにその小説の中のアル・アジフにはどんな事が書かれているの?」
茅野は少し説明に困った様子で答える。
「人間の常識を超えた知識よ。読むと発狂すると言われているわ。具体的な内容についての記述は少ないわね」
「発狂……」
桜井が、ごくりと唾を飲み込む。
恐らく彼女は、この夏に体験した“発狂の家”の呪いを思い出しているのだろう……そう思った茅野はくすりと笑う。
「あくまで、フィクションの中の設定よ」
「そうだよね。そんな読んだら発狂するだなんて、危険な本がある訳がないよね。ファンタジーやメルヘンじゃないんだから」
あはは……と、気安く笑う桜井。
「取り合えず、見てみましょう」
「うん」
こうして、二人は箱の中から『AL.AZEF【0001】』と記されたノートを探し出し開いた。
そこには、二人の想像を遥かに凌駕したモノが記されていた――




