【01】エモい雰囲気
二〇二〇年九月十九日。
銀のミラジーノは県南の山間部を抜け、広大な田園地帯に横たわる県道へと差し掛かる。
その車中では、茅野循が杉本奈緒と大津神社にまつわる一件を語り終えたところだった。
「そっか。杉本さんが……」
桜井梨沙は、しばらく無言のままフロントガラスの向こうを見据え運転を続ける。
そして、前方に見えていた交差点の信号が赤に変わり、ゆっくりと車を減速させながら、彼女はどこか晴々とした調子で言う。
「話してくれてありがとう」
「ええ」とだけ言って、茅野は目を瞑り柔らかな微笑みを浮かべる。
車内は何となくエモーショナルな空気に満たされ始めるが――
「ようするに、話をまとめると、今度は是枝とかいうのに腹パンをぶち込めばいいんでしょ?」
「だいたい、それで合ってるわ」
などと、結局いつもの調子に戻る二人だった。
そして、信号が青に変わり、桜井は車を走らせる。
すると、茅野が何かを思い出した様子で声をあげた。
「そう言えば、あの大津神社に関して面白い話があるのだけれど」
「え、どんな話?」
と、桜井が促す。車は田園地帯を抜け古い町並みの中を走り抜ける。茅野は語り始める。
「……ホラーマニアに人気の『怪奇怨霊映像ドキュメンタリーX』っていうシリーズがあったのだけれど」
桜井は過去形である事に引っ掛かりを覚える。
「あった?」
「ええ。二〇一〇年にリリースされたパート7以降、新作は出ていないわ」
「ふうん」
と、桜井はいつものように聞いているのかいないのか解らない返事をした。
茅野の話は続く。
「……まあ、タイトル通り、実話というていの心霊系のドキュメンタリーなんだけれど編集センスと、出演していた霊能者のキャラクターが受けて、高く評価されていたわ。私も嫌いじゃないわね」
「へえ」
桜井が相づちを打つ。やがて車は古い町並みを通り過ぎ、再び郊外のバイパスの入り口に差し掛かる。
「……で、その新シリーズが、三年前に製作される事になったの」
「三年前……二〇一七年か」
桜井の言葉に茅野は頷く。
「そうね。そもそも、新作が七年越しになってしまったのは、出演していた人気霊能者が活動休止をしていたからね」
「霊能者が?」
「ええ。塚本神山という人なのだけれど」
「あー、聞いた事あるかも。けっこうテレビにも出てたよね、確か。でも、その人も九尾センセみたいにぽんこつなの?」
茅野は首を横に振る。
「たぶん、そうではないと思うわ」
「何だ。じゃあ、その人、偽物の霊能者か」
桜井が、がっかりした顔で言い、茅野は苦笑した。
「ポンコツかどうかが本物の霊能者かどうかの判断基準になるか否かの議論はひとまず置いておくとして、三年前にそのドキュメンタリーXの新シリーズの製作決定の発表があって間もなくして、販売元からリリース中止が発表されたわ。どうも塚本と製作サイドで何らかの意見の食い違いがあったらしいのだけれど、真偽の程は不明のまま。そのお蔵入りとなった新シリーズの舞台となったのが、大津神社だと言われているの」
「その霊能者と製作サイドの揉め事っていうのが気になるね」
「何でも、塚本側がとつぜん降板を申し入れたらしいわ。撮影が始まっていたにも関わらず……」
「それは、心霊的な要因なのか……それとも……」
桜井が鹿爪らしい顔で言い、茅野も神妙な表情で頷く。
「塚本は現在、心霊系YouTuberとして活躍しているのだけれど、生配信のチャットでは“大津神社”や“怪奇怨霊映像ドキュメンタリーX”関連のワードは、ことごとくNGに登録されているわ。この件への本人からのアナウンスも未だにない」
「それは、怪しい」
桜井が眉間にしわを寄せた。
そこで茅野はスマホを手に取り、指を這わせる。
「今、塚本は撮影スタッフにコロナ陽性者が出て自宅待機しているみたいね。本人は陰性みたいだけれど……」
「ふうん」
と、桜井はどうでも良さそうに返事した。
空には襤褸布のような雨雲が掛かっており、天候は今にも崩れてしまいそうだった。
沿道の片側に並ぶのは、昭和を感じさせる家々と電信柱。路面を挟んで反対側には田園地帯が広がっており、その向こうには木立に覆われた丘が黒々と横たわっていた。
そこを走るハイエースバンの中部座背で、塚本神山は表情を曇らせていた。
彼の顔色を窺い、隣のシートに座っていた初山東司は浮かない表情で問う。
「先生、大丈夫ですか?」
「ああ……」
塚本は初山の問いに生返事をして、彼の手に持たれたハンディカムへと目線を移す。
「それ。もう、撮ってるのか?」
「ええ」
初山は頷く。
「……でも、不味いところは使わないんで、適当にしてていいっすよ」
と、気軽な調子でつけ加える。
彼は映像製作会社『マーテルテリブラム』のディレクターであった。
今回、塚本たちは『怪奇怨霊映像ドキュメンタリーX』の新作を撮影するために、この地を訪れていた。今回、作品の舞台となるのは大津神社である。
この神社は二〇〇四年くらいからインターネットの書き込みで有名になったのを切っ掛けに、丑の刻参りが頻繁に行われるようになったのだと言われている。
塚本は以前、本物の霊能者である事を装い、霊感商法で私腹を肥やしていた。彼自身は心霊の存在など、いっさい信じていなかった。
しかし、二〇一〇年の三月に起こった田村母子にまつわる一件で、この世には本物の心霊が存在する事を知り、恐怖を覚えた彼は、霊能者としての活動を休止した。
それ以降はいくばくかの貯蓄を投資に回して何とか食い繋いでいたが、いよいよ限界が訪れたところで『怪奇怨霊映像ドキュメンタリーX』の出演依頼が舞い込んできた。
金に困っていた塚本は、この依頼に飛びついたのだが既に後悔していた。
なぜなら、彼は早々に悟ってしまったからだ。
これは、あのときと同じだ。
活動休止の切っ掛けとなったあの一件で感じた底知れぬ怖気。まごう事なき本物の気配だった。
それは、この地に近づけば近づくほど強いものとなっていった。
それについて、塚本は皮肉なものだと、心の中で自嘲する。
偽物だった彼は本物を知る事によって、わずかにであるが感じ取れるようになってしまったらしい。
しかし、本物を知ったがゆえに、もう二度とそういった存在とは関わり合いになりたくない気持ちが、彼の中でより強固なものとなっていた。
……もしかすると、自分には元々そういった力が眠っていたのかもしれない。
そんな事を考えた直後だった。
運転手がブレーキを踏んで車を減速させた。
前方の三叉路の田園へと伸びた道の方へとウインカーを出した。すると、初山が口を開いた。
「それじゃあ、まずは例の神社で撮影してから、近隣住人へのインタビューも、今日のうちにやっちゃいます……」
などと、撮影の段取りを説明する彼の声を耳にしながら、塚本の目線は片側の沿道に建ち並んだ家々の方に吸い寄せられていた。
ぼろぼろに風化した透かしブロックの塀。
その内側からはみ出した庭木の枝。
古びたトタンの外壁と青い瓦屋根。錆びついて折れ曲がったアンテナ。
その何の変哲もない平屋の前をハイエースバンが通り過ぎようとした瞬間、塚本は車内で盛大な悲鳴をあげた。
「どうしたんですか!? 塚本さん!」
目を丸くする初山の言葉に答えず、塚本は唇を戦慄かせる。
その家の門の表札には『是枝』とあった。
※本文中の塚本神山が活動休止するきっかけとなった事件に関しては、カクヨム限定公開の【ExtraFile01】九尾天全、最初の事件をご覧ください。




