【13】I want be one
あの日本海側のドライブ旅行のあと、少年の母親と新しい男はあっさり破局した。原因は男の両親が交際に反対した事だった。
これに母親は怒り狂い、少年と妹をこれまでにないほど激しくなじった。
お前らのせいで、せっかくの優良物件を逃した。チャンスがふいになったなどと……。
少年と妹は必死に謝ったが母親の怒りは収まらなかった。そして、これ以降、彼女は前にも増して自宅に寄りつかなくなった。
少年と妹は、いつか母が自分たちを許してくれる事を神様に祈りながら待ち続けた。
しかし、その日が訪れる前に、彼は死んだ妹の肉を食べる事となってしまった。
あの一件のあと、少年は名前を佐藤桂太郎に変える事となった。マスコミの加熱報道のせいだった。
そして、一年近く病院で心身のケアを受けたあと、児童養護施設で暮らす事となった。
この当時の彼は、けっきょく自分の母親がどうなったの知らなかった。周りの大人たちも言葉を濁し、答えてくれなかった。
ただ、母親が事件発覚以来、一度も自分に会いに来てくれない事から、彼女に見捨てられたというのは理解できた。
一方で、施設での暮らしは快適で何一つ不自由はなかった。
職員も同居する他の子供も、母親のように自分をなじったりしなかった。ご飯もおやつも食べられたし、衣服もシーツも、いつも綺麗だった。生きるためには負担でしかなかった勉強も遊びも楽しくなり始めた。
この時期、少年は多くの事を学んだ。そして、母親から与えられた価値観がいかに歪んだものだったのか、自分の置かれていた状況がどれだけの地獄であったのかを知った。
それと同時に、彼の胸の内で母親に対する憎悪の炎がくすぶり始めた。
少年は十八歳になった。
施設を出て行くと同時に彼は、銚子在住の水産加工業を営む老夫婦の養子となり、姓を灰谷に変えた。
灰谷は、その老夫婦が経営する会社で働くようになり、二十八歳のとき、都内にある小さな食品加工工場を任される事となった。
この頃の彼は親しく付き合う人間もおらず、いつも孤独だった。あの一件で何も知らない大多数に、ある事ない事を言われたのがトラウマとなって、彼は人間関係に対して臆病になっていたからだ。
しかし、それでも養父母との関係は良好で、仕事も順調であった。
そんな日々の中、彼の人生に再び逢魔が刻が訪れる。
仕事で立ちよった都内の某繁華街での事。
そこで偶然にも、ずっと音信不通だった実の母親を見かけてしまう。
ホストのような男と腕を組み、ホテルから出てくるところだった。
灰谷はすれ違いざまに気がついたが、彼女はまったく気がついていないようだった。
このとき、平凡な日々で忘れかけていた母親への憎悪が再び彼の胸の中で燃え盛った。
母親との邂逅を経て、一年が経った頃、彼の工場に新しいパート従業員が入る事になった。
井筒笑子。
名前の通り、彼女は良く笑う明るい女性だった。工場内でその笑顔を見かけるたびに、灰谷は彼女に惹かれていった。人生で始めての恋だった。
これまで、必要最低限しか人付き合いをしてこなかった彼は、井筒笑子にどう接したら良いのか解らなかった。
それでも彼女の事をもっと知りたいと考えた灰谷は、井筒の履歴書を見る事にした。そこで、彼は気がつく。
彼女の証明写真。
それなりに整ってはいるが、疲れた様子で影のある顔立ち。
それは、灰谷の実母によく似ていた。
井筒笑子が実母に似ていると知ったあとでも、灰谷の彼女に対する想いは変わらなかった。
井筒は実の母親とは違い、灰谷の事を怒鳴ったりする事はなかった。勤務態度も真面目で、仕事の覚えも早かった。
そして、狭い職場だった事。
彼女が人当たりのよい人物だった事。
そして、灰谷の態度や言葉の端々に、隠しきれない好意がにじみ出ており、当の井筒もまんざらではなかった事。
それらの要因が幸いし、次第に二人の距離は縮まっていった。
そして、彼女が働き初めて一年近くが経った頃には、かなり親密な関係となる。
立ち入った話をするようになり、他の従業員には内緒で休日に出かけるようにもなった。
このとき、灰谷は彼女がずっと女手一つで育ててきた娘との関係に悩んでいる事を知った。
どうも、娘の朔美は素行が悪く、陽輝とかいうよく解らない男に貢ぐために、彼女のクレジットカードを無断で利用したり、夜の街で遊び回っているらしい事を知る。
彼女は娘が自分に反発してばかりいる事に憤りつつ、その将来をいつも真剣に憂いていた。
その話を聞きながら灰谷は思った。
何だかんだと言いつつも、彼女は母親として自分の子供に愛情をそそいでいるのだと。
そして、自分の実母と違って、井筒笑子はとても良い母親なのに、なぜ娘の朔美は彼女を厭うのだろうか、と……。
灰谷の中で、井筒朔美に対しての苛立ちが芽生え始めた。
そして、二〇一九年。
灰谷桂太郎と井筒笑子の関係は、ゆっくりとではあるが、よい方向へと進んでいた。
灰谷は、この頃によく見る夢があった。
それは、彼と井筒笑子と朔美の三人で日本海側にドライブへ行き、あの日と同じように六骨鉱泉へ向かい、あのアスレチックのジャングルジムの前で、まるで本物の家族のような笑顔を浮かべて写真を撮るのだ。
いつも、そこで目を覚ます。
夢の中の朔美は素直な良い娘で、母子の関係も良好だった。灰谷も彼女に対して、実の娘であるように接した。
そして、夢から覚めたあとも、彼女たちが本物の家族であるかのように感じられた。この頃の彼の妄想の中では、井筒母娘はすでに家族だった。
灰谷は真剣に、井筒笑子との結婚を考え初めていた。
しかし、同時に彼は、未だに自分が“少年A”であると、告白していない事についても悩んでいた。
彼女なら自分の過去を受け入れてくれるかもしれない。
しかし、同時に彼は恐れていた。その事実を知った彼女が自分から離れていってしまうのではないかと……。
そうして、悶々としながら日々を過ごし、二〇一九年十二月二十三日。
この日、井筒笑子が無断欠勤をした。
これまでに一度もなかった事だった。そして、灰谷の元に『たすけて』というメッセージが入っていた。
これは只ならぬ事が起きたに違いない。
そう考えた灰谷は他の人に仕事を任せ、井筒笑子が住んでいるアパートへと様子を見に行く事にした。
車を最寄りの駐車場に停めて、早足でエントランスを通り抜ける。エレベーターに乗り、目的のフロアへ辿り着く。
そして、塗料が剥げかけて錆の浮いた彼女の住居の扉の前に立ち、インターフォンを押す。しかし、反応はなかった。
何度か連打したあと、ドアノブに手をかけた。鍵は開いていた。ますます、嫌な予感がした。
灰谷は彼女の名前を呼びながら、扉口をくぐり抜ける。呼びかけへの返答はない。
彼は三和土で靴を脱ぐと、彼女の住居の奧へと進んだ。
静まり返った廊下。
誰もいないリビングとキッチン。
耳を済ますと、微かに音楽が聞こえてくる。それは進むに連れて大きくなっていった。
どうやら、リビングの奧にある部屋から聞こえてくるようだった。扉が半開きになっており、ドアノブには『SAKUMI』と記されたファンシーな色合いのプレートが吊るされている。
その扉口の向こうに、井筒笑子の姿があった。
ベッドの縁に座り、スマホを手にしてうつむいたまま、ぴくりとも動かない。
声をかけても、反応はない。
灰谷は、彼女に呼びかけながら、室内へと足を踏み入れる。
すると、それは右手の窓際だった。
井筒朔美がカーテンレールにビニールロープをかけて首を吊っていた。
紫色の顔で目を細く開け、信じられないほど舌が長く伸びていた。身につけていた白のスウェットの股間が黒ずみ、真下の床に水溜まりができている。
もう生きていない事は一目で解った。
しかし、そんな事よりも、灰谷にとっては井筒笑子の方が重要であった。屈んで肩を揺すりながら名前を呼び、彼女の顔を覗き込む。
井筒は赤く腫らした虚ろな目で、凍りついたような笑みを浮かべていた。
彼女は完全に壊れていた。
そこで、ずっと鳴り続けていた耳障りな歌が、彼の神経を逆撫でる。
それは、朔美の勉強机の上に置いてあった古い型のノートパソコンから流れていた。
曲名は『I want be one』
画面の中でリピート再生されたMVの中、陽輝が霧立ち込める幻想的なステージで気持ち良さそうに歌いあげている。
そして、そのノートパソコンの隣には、可愛らしいピンク色の日記帳が置いてあった。灰谷はそれを手に取って開く。パラパラと頁を捲る。
すると、いちばん最後に、彼女が死に至った動機が簡潔に記してあった。
それを読み終えた灰谷は、パソコン画面を睨みつける。
「I want be one……一つになりたいか」
そんなになりたければ、その望みを叶えてやる。
灰谷の脳裏に悪魔の閃きが降って来る。
彼は自分の大切な人を傷つけた奴らへの復讐を決意した。