【00】浮遊する道化師
背の低い瓦屋根が建ち並ぶ古い住宅街の町並みは、暮れなずむ夕焼けの中に沈み込もうとしていた。
しかし、真昼の炎天下がもたらした熱は未だに冷めやる気配を見せず、風もなく蒸し暑い。
それは、二〇一五年九月の初週の事。
新照中学の教師、小林京助は、アウディのハンドルを握り、市の郊外へと向かっていた。
目的は、彼が担任している二年二組の女子生徒の家庭訪問であった。
その生徒の名前は、辺見和華という。
彼女は夏休み明けからずっと無断欠席を続けており、この日でちょうど一週間となる。
彼女の家庭環境はなかなか複雑で、両親を亡くし、現在は歳の離れた実兄と新照市郊外の一軒家で暮らしているのだが、その実兄とも連絡が取れないでいた。
辺見家には固定電話はないらしい。したがって、保護者への連絡は、もっぱら彼のスマホへと電話で行っているのだが、何度掛けても繋がらない。折り返しの電話もない。
辺見和華は無断欠席の常連で、以前にも一週間近く学校を休んだ事はあったが、兄とも連絡がつながらないのは今回が初めての事である。
生徒の素行を正すのは教師の勤めとはいえ、小林としては面倒事などまっぴらであった。
しかし、このまま静観したとしても、もしもの事があったときに何もしなかった事を責められるのは自分であると気がつき、ついに彼は火中の栗を拾う覚悟を決めたのだった。
そんな訳で小林は田園に囲まれた集落の一角にある、辺見宅の前へと到着する。
蔦の這った背の高い塀に囲まれており、そこから手入れのされていない合歓や椨の木立が溢れていた。
それらに埋もれるように、くすんだ青の三角屋根と縦に長い洋窓がいくつか窺える。
“家”というより“館”というのが相応しい佇まいであった。
小林は、その塀に寄せてアウディを停めると運転席から腰を浮かせて外に出た。
蒸し暑さに顔をしかめながら、木立の合間から顔を見せる辺見邸へと視線を送った。
見える範囲の窓には、すべて白いカーテンが掛かっていた。庭木から響く蝉の鳴き声と、遠方より聞こえるトラックの走行音の他は何も聞こえない。
静まり返っており、門の右側にあるガレージのシャッターも固く閉ざされていた。人の気配はまったくない。
漂う不気味な雰囲気に、どことなく不吉な予兆めいたものを感じた小林は眉間に深いしわを寄せたが、どうにか重くなった足を動かし門前へと向かった。
悲鳴のような音を立てる錆びついた格子扉を開けて、玄関まで続くひび割れたセメントの小道を歩んだ。
庭先は中々に荒れており、雑草や木の枝の隙間には、丸々と肥えた女郎蜘蛛たちが巣を張り巡らせていた。
それらを横目に通り過ぎ、小林はポーチの軒を潜り抜けて、木製の重々しい玄関扉の前に立つ。ネクタイを整えてから、インターフォンを押した。
しかし、反応はない。もう一度、インターフォンを押してみたが、やはり反応はない。
……そもそも電源が入っていない事に気がついた小林は苛立ちに顔を歪めた。
仕方がないので扉板をノックして声を張りあげる。
「ごめんください、辺見さん! 新照中学の小林です。ご在宅でしょうか?」
反応はない。
因みに辺見和華本人から聞いたところによると、彼女の実兄は投資や株取り引きで生計を立てており、ほとんど家から出る事はないのだそうだ。
その話に嘘がないなら、彼は家にいて然るべきである。
しかし、辺見邸からは物音一つ聞こえない。蝉の鳴き声に塗り潰された不気味な静けさが、そこにあるだけであった。
小林は、さっきより強めに扉板を叩いて更に声を張りあげる事にした。
「おい! 辺見! 先生だ! いるなら開けてくれ!」
やはり、反応はなかった。
小林は苦虫を噛み潰したような顔で、大きな溜め息を吐いた。
そのまま、少しだけ立ち尽くし、もう一度だけ辺見の兄に電話を掛けてみる事にした。
やはり、いくら経っても通話が繋がる気配はなかった。
状況は明らかにおかしい。
ここは、いったん学校に帰って、教頭に現状の報告と対応を相談すべきか。一刻も早く警察に駆け込むべきか……。
兎も角、小林は諦めて電話を耳から離した、その瞬間であった。
蝉時雨の向こう側で、微かに電子音が鳴っている事に気がついた。
それは、よくあるスマートフォンの呼び出し音であった。
小林は自分の手の中にあるスマホ画面を凝視する。
これは、辺見兄のスマホの呼び出し音だ。近くに彼がいる……。
その事を悟った小林は、神妙な顔つきで耳を澄ました。そして、微かに鳴り続けている呼び出し音を辿り、玄関から右手の庭先へと足を踏み入れる。
足元から小林の下半身を覆い尽くすほどに伸びた雑草をかき分け、蜘蛛の巣を潜り抜けて、辺見邸を右周りに裏手へと進む。
次第に大きくなる呼び出し音。それと同時に、耐え難い悪臭が強くなり、鼻先にまとわりつき始める。
すえた臭い。
有機物の腐敗臭。
死の香り。
沢山の不愉快な羽音。
そして裏庭に辿りついたとき、小林は、その光景を目の当たりにして凍りついた。
捻れた枝が縦横に突き出た大きな椨の大木。
その傘のように広がった枝葉の真下に、道化師が浮いていた。
中央でオレンジと青に割れた、だぶだぶのツナギ。
胸元から下腹部に掛けてならんだ赤いボンボン。
襟元や袖口に広がる白い襞。
両足には爪先の反り返ったピエロブーツ。
二股に別れたジェスターハットを乗せた顔は、熟れ過ぎた果実のような土気色をしており、浮腫んでいた。所々に米粒のような白い蛆が蠢いているのが遠目にも解った。
死者の顔をした道化師が空中に浮いている。
しかし、小林はそれが錯覚である事に、すぐに気がついた。
「ああああ……」
道化師の格好をした人間が首を吊っている。
小林は慌てて、ずっと手の中で呼び出し中だったスマホで警察へと通報する事にした。
すると、吊られた道化師の右ポケットで鳴り続けていた着信音がぴたりと止んだ。