【06】兎に角、腹パン
年代物のブラウン管テレビに、古びた振り子時計。茶箪笥の上には、どこかの土産物の小芥子や硝子ケースに納められた日本人形が並んでいる。
「こっちへどうぞ」
老婆に導かれるまま、瀬戸内浩介は、その薄暗い居間に足を踏み入れた。座卓の前に置かれた座布団の上に腰をおろす。
鹿田翁の姿は見当たらない。時計の振り子の音以外は何も聞こえない。
老婆は座卓を挟んで瀬戸内の正面に座り、膝をついてお茶を入れ始める。
そして、おもむろに語り始めた。
「……わしらには孫がおりまして」
ポットから急須に湯をそそぐ老婆。
「はあ……」と、瀬戸内は興味がなかったので生返事をした。
老婆は急須の中身を湯飲みにそそぎながら話を続ける。
「……なまら可愛い女の子で……」
「へえ、そうですか」
そこで、老婆が湯飲みを瀬戸内の前に置いた。
「……だけども、生れつき心臓の病気で、ほんに、可哀想に……」
老婆が目頭を擦りながら啜り泣き始めた。
いったい、何の話を聞かされているのか……と、瀬戸内は内心苛立ちながら、湯飲みを持ちあげた。
「それは、お気の毒に……それで、えっと、通帳とカードの方はまだでしょうか?」
老婆はその質問に答える事なく、俯いたまま再び語り始める。
「……爺さんは、孫のために山を売って手術の金を必死に集めてたんが」
「へえ……そうなんですか」
瀬戸内の頬が弛む。
老婆のその話が本当なら、これはかなりの大物かもしれない。仕事の取り分は割合で決まっているので、でかい獲物を引っ掛ければ、瀬戸内の取り分も多くなる。
更に探りを入れようと試みる瀬戸内。
「……えっと。そのお孫さんの手術には、いくらぐらい必要なんですか?」
「二千万……」
その老婆の返答を耳にした瀬戸内は、思わず口笛を吹きそうになった。気を落ちつかせるために、持ちあげたままだった湯飲みを口元に運んだ。
しかし……。
「うっ!」
湯飲みを唇につけて傾けた直後、口内に雪崩れ込んできたのは、生臭い鉄錆の味であった。
瀬戸内は口に含んだものを噴射して、噎せ返る。
「……げほっ、げほっ、げほ……な、何だ!? オェ……」
吐き気を堪えて口元を拭う。そして、自らが口に含んだものを噴射した座卓の上を見ると、そこには赤い飛沫が散らばっているではないか。
「ヒイッ……!」
腰を落としたまま仰け反って、右手の湯飲みを投げ出す。座卓の上に転がった、それの中から赤黒い液体が溢れ出す。
「……なっ、何なんだ!? 俺に何を飲ませたっ!」
その瀬戸内の言葉に答える事なく、老婆は俯いたまま、地獄の底から響き渡るかのような声で言う。
「……その二千万、お前みたいな、狡い、嘘つきに盗まれたんが……」
「お前、何を……何の話をしているんだ……!?」
この老婆が何の話をしているのかさっぱり解らない。しかし、一つだけはっきりしているのは、彼女は最初からすべて解っていたのだ。
ここにいる県の職員を名乗る男が偽者だという事を……。
背筋に怖気が走り、瀬戸内は立ちあがった。老婆に背を向けて、居間から逃げ出そうとした。
すると、そこで背後に、いつの間にか鹿田翁が立っていた事に気がついた。
仄暗い眼差しで、じっと瀬戸内を見つめている。
まるで、空腹の猛獣の前に立ったかのような圧力。
膝が笑い、下腹から力が抜けてゆく。
「ヒッ……ひぃ……嫌だ……やめてくれ……」
瀬戸内は必死に命乞いする。しかし、彼に救いがもたらされる事はなかった。
鹿田翁の洞穴のような両目から、鮮血のような赤い液体が滴り出す。
同時にしわがれた両手が瀬戸内に向かって伸びてきた。
「うわあああああ……」
絶叫が轟く。
瀬戸内は仰け反り、たたらを踏んだ。
すると、彼は大きく後方にバランスを崩して倒れてしまう。
「うわあっ!」
刹那、粘性を帯びた鈍い打撃音が鳴り響いた。
桜井と茅野が目当てにしていた石仏は、集落のある斜面の上部に生い茂る杉林を抜けた先の岩壁にあった。
それは、長い年月の果てに風化しており、かろうじて人の形を保っている程度のものだった。
その上、夥しい苔にも覆われており、石仏があると知らなければ、単なる岩肌にしか見えなかった。
それでも撮影は怠らない桜井と茅野。
石仏にレンズを向けて、ぱしゃぱしゃとシャッターを切っていると、微かな悲鳴が耳をついた。
神妙な顔つきで視線を合わせる二人。
「循……今のは……」
「ええ。梨沙さん」
「悲鳴……だね。男の」
「戻りましょう」
二人はすぐに来た道を戻り始める。
杉林の間を抜ける杣道を通り、集落跡が見渡せる位置にやって来た。
すると、鹿田家のあった辺りの藪の中に、人影が佇ずんでいた。
紺色のスーツとノーネクタイの白いワイシャツ姿。歳は若く、二十歳前後に見えた。
青白い顔で特に何をするでもなく、ぼんやりと立ち尽くす姿は、かなり異様であった。
「おーい、大丈夫!?」
桜井が斜面の上から大声で叫び、右手を高々とあげて振り乱す。すると、男はゆっくりと桜井たちの方を見あげる。
「……様子がおかしいわね」
怪訝そうに言う茅野。
「……取り憑かれたのかな?」
桜井は何かを期待している様子だった。しかし、茅野は断定を避ける。
「……まだ、何とも言えないわ。取り敢えず、写真を撮って九尾先生に送りましょう」
「そだね」
と、桜井がネックストラップのスマホを構えた瞬間だった。
男が口を大きく開け、喉を反らしながら叫び始めたではないか。
「ああああああああああ……」
そして、その両目から血の涙を流し始めた。
「循!」
「……これは、ただ事ではないわね」
茅野が冷静な口調でそう言った次の瞬間だった。
「……ならば、腹パンだ!」
そう言い捨てて、桜井は勢いよく斜面を駆け降り、その男へと突っ込んでいった。