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【00】私の家


 雷光に照らされた窓の外は酷いどしゃ降りの雨だった。

 その男は虚ろな眼差しで薄暗い天井を見あげたまま、ぴくりとも動かずに廊下を引きずられていた。

 禿げあがった頭頂部と左右が繋がりそうなほど濃い眉毛。

 瞬き一つせずに両足首を掴まれて、ずるずるずる……と、引きずられていた。

 床面と接した彼の後頭部の傷から溢れた鮮血が、長い長い血の痕を作りあげる。

 その男の両足首を掴んでいるのは、黒いレインコートを着た人物だった。すっぽりと頭部を覆ったフードに隠れて、人相は窺えない。

 レインコートの裾からポタポタと雨水が滴る。

 引きずられた男の身体が、まるでモップのように床の上の水滴を拭いて、すぐに血の痕で汚す。

 その繰り返し……その繰り返し……。

「ここは、私の家だぁ……うひひひっ……」

 次の瞬間、再び雷光が窓の外で瞬く。

 すると、フードの奥の闇に隠されていた狂気の微笑が照らされて浮かびあがる――。




 二〇〇二年の春先の事だった。

 そこは、ある地方都市の裁判所内にある『物件明細等閲覧室』であった。

 手狭な広さの室内には、いくつかの長机とパイプ椅子が並んでおり、奥の壁際にあるスチール棚には多数の青いファイルが納められていた。

 現況調査報告書、評価書、物件明細書のそれぞれの写しをまとめたもの……俗に言う不動産競売の三点セットである。

 その中からいくつかのファイルを抜き取り、長机の一画で広げるのは二十代半ばの女性だった。

 名前を古寺美袋(ふるでらみなぎ)という。

 そして、彼女の傍らに立ち、一緒にファイルを覗き込むのは、夫の大樹(たいき)であった。

「ほら、見て! いっぱい、あるね。これなんか、新築と変わらないじゃない」

「うーん、確かに……」

 元々、古寺夫婦は都内のアパートに居を構えていたのだが、昨年の夏頃に夫の大樹が仕事の心労から体調を崩し、退職を余儀なくされた。

 そこで、夫の両親の勧めもあり、彼の故郷でもある日本海側の地方都市に移住する事となった訳だが、そこで一つの問題が持ちあがった。

 夫の両親は実家での同居を提案してきたのだが、それを美袋が嫌がったのだ。

 美袋は以前より姑との折り合いが悪かった。それゆえに彼女との同居などまっぴらであったし、単純に夫の両親の意向に従いたくないという妙なプライドがあった。

 かといって、アパートや団地を借りるつもりにもなれなかった。

 古寺夫婦には敬士(たかし)美知(みち)という六歳の双子の子供がおり、彼らの成長を考えると、手狭な住居では気詰まりになると考えたのだ。

 しかし、だからといって古寺家に一軒家を買えるくらいの経済的余裕はなかった。

 御眼鏡に適う賃貸物件もあるにはあったが田舎とはいえ、それなりのものとなれば賃料も馬鹿にはならない。

 そもそも、馬鹿にはならない賃貸料を払ってまで実家を出て暮らすとなると、夫の家族との同居を拒否している事は傍目(はため)から見て一目瞭然(いちもくりょうぜん)である。

 世間体がよろしくないし、何より姑に当てつけであると受け取られてしまう。

 事実、当てつけなのであるが……。

 それはさておき、そういった諸々(もろもろ)の事情を考慮すると、少なくとも夫の実家よりも優良な物件を探さなければならない。そうでなくては、実家での同居を拒否する口実にならないからだ。そこで、美袋が目をつけたのは競売物件であった。

 競売物件とは、民事執行法に基づき裁判所が差し押さえた物件の事である。

 その差し押さえられた物件は競売にかけられて売りに出されるのだが、一般的に相場をかなり下回る値段である事が多い。

 しかし、内見ができなかったり、物件の状況を知る事のできる資料が乏しかったりと、不動産売買の素人には敷居が高かったりする。

 その事を美袋は知らなかった。そもそも、このときの彼女は、競売物件が借金の形であった事を知っていたのかどうかも怪しい。兎に角、彼女は世間知らずであった。

 夫の大樹はというと、元々惚れた弱みから彼女に対して強く出る事ができなかった。

 更に自分のせいで、これまでの生活を一変させなければならなくなった負い目を感じていた事もあり、彼女の提案に何も言えなくなっていた。

 しかし、彼は内心では実家で両親と住む事を望んでおり、妻にどうやってその事を納得させるべきかと頭を悩ませていた。

 そもそも、いくら競売物件が安いとはいえ、相場の七割程度の価格はする。それぐらいなら、無理をすればギリギリ出せない事はないが、それでもかなり厳しい。

 それなら、両親の厚意に甘えて将来のために貯蓄をするべきであると、彼は考えていた。

 ともあれ、まるで通販カタログを眺めるかのように瞳をきらきらとさせていた美袋であったが、ある物件の現況調査報告書でピタリと手を止めた。

「ねえ、大樹。この家……」

「ん、何?」

 大樹は美袋が指を指した写真に注目する。

 それは真っ白い家だった。

 少し古めかしい外観といった感じであったが、外壁は綺麗で汚れはない。天気のよい日に撮影したらしく、背景の青空とのコントラストは艶やかで美しかった。

 まるで海外のホームドラマにでも出てきそうな、その家に美袋は心を奪われる。書類の記載を見ても物件の状態は良好そうであった。

「これ……私の家だ(・・・・)

「は?」

 と、大樹が聞き返すと美袋は彼を見あげながら、微笑みながら首を横に振る。

「ううん。何でもない」

 彼女には視えたのだ。

 夫と子供二人が、その家のリビングで幸せそうに笑いあっている未来を……。

 日当たりのよいリビングダイニングでの朝のひととき。夫が新聞を広げながら一足先に朝食後の珈琲を(すす)っていると、成長して制服に身を包んだ子供たち二人がやって来る。

 お手製のベーコンエッグに、有機野菜のサラダ、近所に見つけたベーカリーのパンをトーストして皿に乗せ、テーブルの上に並べてゆく。

 年頃で体重を気にし始めた美知に朝食を残さず食べるように言いつけ、寝ぼけ(まなこ)の敬士の寝癖を指摘して……そうするうちに朝の慌ただしい一時(ひととき)は終わりを告げる――。

 そんな平々凡々ながら満ち足りた理想の未来が美袋の脳裏に、まるで映画のワンシーンのように展開されたのだった。

「ねえ、大樹くん……」

「何?」

「この家にしましょうよ!」

 美袋は幸せな未来を確信して夫に提案したのだが、彼の表情はどうにも優れない。

「……美袋ちゃん。僕もこの家はかなりいい物件だと思うけど……」

 そう言って、大樹は申し訳なさそうに現況調査報告書の中のある記載を指差した。そこには『占有者(およ)び占有状況』とあり『その他の者』というところにチェックが入っていた。

「これって、どういう意味?」

 訳が解らず聞き返す美袋。大樹は彼女の疑問に答えた。

「これは、まだ、この物件には誰かが住んでいるって事だよ」

「えっ……どうして?」

 美袋の表情が不機嫌なものに歪む。

 競売物件とは売り物ではないのか。その売り物に、なぜ人がまだ住んでいるのか……美袋には、さっぱり意味が解らなかった。

「僕も詳しくは知らないけど、差し押さえされた後でも、その物件に住む事はできるみたいなんだ。何か店子や賃借人の権利を保護する制度らしいんだけど……」

「ええ……」

 美袋は渋い表情で現況調査報告書に目線を落とした。大樹が、ここぞとばかりに畳み掛けようとする。

「もちろん、出ていってもらう事はできるんだけど、その交渉とかは競売物件を買った人がやらなきゃならないんだよ」

「だったら、警察に電話して何とかしてもらいましょうよ。私たちの家に勝手に住んでる人がいるって」

 その妻の無茶苦茶な言葉に、大樹は苦笑して首を横に振った。

「警察じゃなくて、裁判所に手続きをして、法的に退いてもらう事もできるらしいけど、凄く手間だし時間が掛かるみたい」

「ええー……」

 しょんぼりと肩を落とす美袋。そこに大樹がトドメを刺そうとする。

「だから、競売物件は素人には難しいし、やっぱり、やめよう。ね……? お母さんだって、君と仲良くしたいはずだし、僕も間に入るからさ。実家でいいじゃん」

「うん……」

 と、生返事を返した美袋であったが、彼女はその家をどうしても諦めきれなかった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 狂気の微笑を浮かべた人物が私の家、と言って美袋さんも私の家、と言っていて今回は家にまつわるお話でしょうか、わくわくします。 [一言] 左右が繋がりそうなほど濃い眉毛、で一瞬、某葛飾区の派出…
[気になる点] この場合美袋さん(略してお袋)が転生者なのか、占領者が死神的なサムシングなのか、家が人喰いハウス的なアレなのか…… [一言] 遅ればせながら
[一言] 定期的に生贄をゲットできる…怪異も色々考えてんだなぁ
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