【11】謎の少女たち
「……ぜんぶ、思い出せたみたいだね」
松崎は慈しみに満ちた眼差しをベッドの上の姫宮あかりに向けた。
「七月六日、同じ部屋に泊まっていた君のマネージャーが大浴場から部屋に帰ってくると、君の姿が見当たらなかった。そして、彼女のスマホに『明日のイベントは出れません。ごめんなさい』というメッセージが君のスマホから送られていた」
「やめて……もう……やめて……」
姫宮は顔を両手で覆い、絞り出すような声をあげた。しかし、松崎は滔々と語る。
「すごいよね。あかりんは……自分がいちばん辛いのに、明日のイベントの事を心配するんだもん……とても優しいし、プロ意識も高いよ、本当に」
「やめて……お願い……」
姫宮は啜り泣き始める。しかし、松崎は語り続けた。
「あかりんは真のアイドルだよ……それに比べて、あかりんを踏みつけて成りあがったクソビッチどもは……」
そう言って忌々しげに舌打ちをする。
「うっ……う」
そこで姫宮の脳裏に甦るのは、足元の遥か下方で飛沫をあげる波間だった。そして、回転しながら遠ざかってゆく空と、接近する海面。遠退く意識。いつの間にか世界は暗転し――
「もう、やめてっ!」
絶叫する姫宮。
「あかりん……大丈夫?」
「もう、もう……解ったからやめてください……おねがいします」
姫宮はか細い声をあげて視線をあげた。すると、同時に松崎が姫宮の頭を撫でようと、彼女の頭上に手を翳した。次の瞬間だった。
「あ……」
姫宮の顔から表情が消え失せる。涙に濡れて赤くなった両眼を大きく見開き、凍りついたまま動かない。
流石に松崎も様子がおかしいと悟ったようだ。手を止めたまま、心配げに問うた。
「……どうしたの? あかりん」
姫宮は無表情のまま凍りついている。
「どこか、痛いの?」
その問いに無言のまま首を横に振った。
気まずい沈黙。
それに耐えかねた松崎が視線を窓の方へ向けた。
「もうすぐ、夜だね……」
窓に打ちつけた板の隙間からは、黄昏色の光が射し込んでいた。
「……そろそろ僕は、いったん帰るけど、ちゃんと、カメラで見ているからね? 何かあったら、すぐに飛んでくるよ」
姫宮は言葉なくゆっくりと頷いただけだった。
松崎はベッドの傍らにあったナイトスタンドに明かりを入れて、出口の扉まで向かう。一度だけ立ち止まり、ぐったりと項垂れ続ける姫宮の方を振り向くと、目を細めて微笑んだ。
「今日は疲れただろうから……また、明日、話そうね? あかりん」
そう言い残すと松崎は扉を開けて部屋を後にした。
がちゃり……と、外から施錠の音が鳴り響く。
独り残された姫宮は思い出す。
松崎の顔を見あげたとき、ちょうど彼が左手を翳した直後だった。
その掌に並んだ三つの黶……。
「あの男がORION……」
姫宮に対して、そしてGirly7に対して、インターネット上で誹謗中傷を繰り返し、彼女のかつての交際相手だった岸田良平の住所を匿名掲示板で晒しあげた狂アンチ。
かつて、高円寺で姫宮あかりを待ち伏せし、暴行を加えようとした男。
「何で……」
訳が解らない。
ただ一つだけはっきりしているのは、自分はたった今、あの狂アンチに監禁されているという事だった。
「うっ……」
吐き気が込みあげてきて口元を抑える。
「ふぅー、ふぅー……」
どうにか息を調えて、落ち着きを取り戻す。
何とかここから逃げ出さなければならない。
しかし、松崎はカメラで見ていると言っていた。当然ながら下手な事はできない。
幸いにも向こうは、こちらが気がついている事に気がついていない。それだけが、唯一のアドバンテージであった。
まずは何気ない風を装いながら、冷静に室内を観察する。
サイドボード、扇風機、クローゼット、小型の冷蔵庫……。
そして、電化製品のプラグが刺さっている電源タップのコードが、ベッドの下へと伸びている事に気がつく。
姫宮は身体を捻りベッドの下を覗き込む。
すると、そこにあったのはキャンプ用のポータブル電源であった。
次に姫宮は起きあがってベッドから出ると、入り口の近くの壁にあった電源のスイッチを入れた。しかし、部屋の明るさはまったく変わらない。
天井を見あげると何ヵ所かペンダントライトのコンセントが剥き出しになっているだけで、照明そのものがない事に気がつく。そして、部屋の四隅に取りつけられたカメラ……。
そのレンズの向こう側で、あの狂人が今のこの状況を見てほくそ笑んでいるかと思うと、怖気で背筋が震えた。
しかし、その心持ちを気取られぬように平静を装い、姫宮は洗面所に向かった。
外に面した窓はなかった。
洗面台を見ると、蛇口と鏡が取り外されている。奥にあったバスルームも同じで窓はなく、鏡も水道の蛇口もなかった。
次にトイレへと行くと便座の蓋が閉まっており、少し大きめの段ボール箱が置いてあった。
その箱の表面に印刷されたラベルを読むと、どうやら中身は防災用の簡易トイレであるらしい。
試しに便器の水を流してみたが何も起こらない。因みにここにも窓はない。姫宮はトイレを後にした。
次に室内唯一の窓に張られた板の隙間を覗き込む。すると、強烈な西日が目に刺さり、外の様子は窺えなかった。どうにか、認識できたのは埃まみれの窓硝子のみだった。
窓の板は少し押してみたが、びくともしない。細腕の女がどうにかできる代物ではないと、すぐに解った。
最後に冷蔵庫を開けると、ミネラルウォーターの五〇〇ミリペットボトルが六本とブロックの保存食が一ダース入っていた。他には何もない。
けっきょく、電気も水道も通っていない廃墟に監禁されているらしい事以外は、何も解らなかった。
ここは下手に動かずに脱出の機会を待つ事にする。というより、それ以外に選択肢が思いつかなかった。
隙をついて、扉へと駆け出して外に出る……しかし、もしも、追いつかれて捕まってしまったら……。
不安で心が押し潰されそうになる。恐怖と緊張で全身が強ばる。
シーツにくるまり、丸めた背中を唯一の脱出経路である扉に向けて目を閉じる。
もしも、失敗してしまったら……そして、あの異常者に、こちらが気がついている事を悟られたら……。
必死に乱れた心を落ち着かせようとする――。
そうして、どれくらいの時間が経過したであろうか。
不意に扉の方から、がちゃり……と、解錠の音が聞こえた。
ゆっくりと、慎重に扉の開く音がした。
……あいつが来た。
予想以上に早く訪れた脱出の機会に、心臓が早鐘のように鳴り始める。
このまま、寝た振りをして隙を窺う……そう腹を括った矢先であった。
「おっ。誰か寝てる」
「本当ね……生きている人間かしら?」
それは聞いた事のない女の声だった。
姫宮の脳裏にハテナマークが飛び交う。
「お邪魔しまーす」
囁くような声の後に扉の閉まる音が聞こえた。誰かがベッドへと近づいてくる。
姫宮は勢いよく上半身を起こして、その闖入者の方を見た。
すると、そこには、ハイカー風の格好をした二人の少女が立っているではないか。
背の高い黒髪の少女と、小柄なポニーテールの少女である。どちらも、どこぞのアイドルグループにでもいそうなくらいレベルの高い美少女であった。
そして、背の低い少女が何気ない調子で右手をあげて言った。
「やあ。おはよう」
極めて呑気な声音だった。