【00】不気味な子供
一九九二年は八年振りに求人倍率が少数点以下となり、あとに就職氷河期元年とされる節目であった。
しかし、当時の世相には、そんな悲観的な未来を微塵にも感じていない楽観的な明るさが残っていた。
大学生の瀬下玲子も、これから訪れる長い冬に思い馳せる事はなく、眼前の青い春をただひたすら楽しもうとしていた。
この日は十二月二十四日、クリスマスイブ。
瀬下は朝から県庁所在地のデパート内にあるブティックでバイトをこなし、十九時少し前に店をあとにする。
そのまま、エレベーターに乗り地下の食品売場へと向かった。
フロアはリースやオーナメントで彩られており、軽やかなクリスマスソングと人々の奏でる雑踏で満たされている。
瀬下は買い物籠をカートに乗せてから、鞄の中のポケベルを取り出した。すると、同棲中の恋人より連絡が入っている事に気がつく。どうやら、仕事が終わり、このデパートへ向かっているらしい。
柔らかい微笑みを浮かべて、ポケベルを鞄の中へしまった。
このあと、彼女は恋人と待ち合わせ、買い物を済ませたのちに黒狛市の自宅アパートへと帰り、聖なる一夜を共に過ごすつもりだった。
先に買い物をしていれば丁度よい頃合いだろうと考え、まずは予約していたケーキを受け取る事にする。
カートを押しながら人混みをかき分け、同じフロア内にある洋菓子店へと向かった。
案の定、店には行列ができていたが、これもまたクリスマスらしいイベントであると、瀬下は特に苛立つ事なく列の最後尾についた。そして、耳に馴染んだクリスマスソングを聞きながら待つ事十数分……ようやく、彼女の番がやってきた。予約伝票と引き換えにケーキを受け取って会計をする。
釣り銭を受け取ると、近くの壁際の人気のない場所へ移動した。そこで釣り銭やレシートを財布の中にしまっていると……。
「そのケーキ、お家で食べるの?」
と、唐突に声をかけられる。
驚いた瀬下は、視線をあげて反射的に声の主の方へ目線をやった。
すると、そこには見知らぬ少年が立っていた。
年齢は小学生くらいで、身なりはあまりよくないように感じた。大人びた眼差しで瀬下を見据えている。
瀬下が「どうしたの? お父さんとお母さんは?」と、尋ねると少年は再びさっきの言葉を繰り返した。
「そのケーキ、お家で食べるの?」
瀬下は子供のたわいもない好奇心だろうと深く考えず、その質問に答えた。
「そうだよー。それがどうかしたの?」
すると、少年は表情をまったく変えぬまま、右手を瀬下の方へと伸ばして言う。
「じゃあ、そのケーキ、ぼくにちょうだい」
「は?」
意味が解らなかった。
ねだれば簡単に他人から物をもらえると、勘違いしているのか。しかし、そういった分別がつかないほど幼い歳には思えなかった。
そもそも、ついさっき、ケーキを家に持って帰ると彼の質問に答えたばかりである。どういう理屈で、そのケーキがもらえる物なのだと考えるに至ったのかがまったく解らない。
「どうして、そんな事を言うのかな?」
瀬下はできるだけ優しい声音で少年に尋ねた。
すると、彼は確信に満ちた口調ではっきりと、その言葉を口にした。
「無駄だから」
「は?」
まったく、予想だにしなかった答えに瀬下は目を丸くしていると、少年は更に言葉を重ねた。
「多分、お姉さん、もう時間がない。だから、そのケーキをお家に持って帰れない。食べる時間がない。」
そこで少年は、戸惑う瀬下を尻目に再び右手を伸ばす。
「もったいないから、ぼくが食べてあげる」
揺るぎない自信と確信に溢れた声音。
彼の言っている言葉の意味は、まるで解らなかったが瀬下の背筋に冷たいものが走った。
すると、次の瞬間だった。
「こら。何してるの!? もう、そんなところで……」
買い物籠を提げた四十代くらいの女性が、小走りで駆けてくる。少年がそちらの方を向いて「ママ……」と、抑揚のない声で言った。どうやら、彼の母親らしい。
その女性は気まずそうに笑いながら、瀬下に向かって頭を下げる。
「すいません。この子が何か失礼を……」
「いえいえ。大丈夫ですから」
瀬下は両手を振り乱しながら、にこやかな笑みを浮かべて、特に気分を害していない事をアピールする。
すると、母親らしき女性はもう一度、謝罪の言葉を述べて、少年の手を引き立ち去って行った。
いったい、何だったのか……瀬下は唖然として、遠ざかる母子の姿を見送る。
すると、その向こうからスーツ姿の恋人が姿を現した。
それに気がついた瀬下は、ほっと安堵の溜め息を吐き出し、右手を振りあげた。
「つーくん、こっち!」
すると、恋人も気がついたらしく瀬下に向かって駆け出す。あの母子とすれ違うと、彼女の元までやって来る。
「待った?」
「全然……それより、つーくん」
「何? れいちゃん」
「あのね……」
瀬下は恋人についさっきの少年の話をしようとした。しかし……。
「ううん、何でもない」
「何だよ……?」
「ごめん、つーくん。それより、早く買い物済ませて、お家へ帰ろ?」
きっと、からかわれたのだ。そう思い直し、瀬下はあの不気味な少年の事を忘れようとした。
二人はそのまま肩を寄せあって、酒類のコーナーへと向かう。
……その様子を例の少年がじっと見つめている事に、瀬下は気がついていなかった。
『交差点でトラックが乗用車に衝突 信号無視が原因か』
黒狛警察署は24日、業務上過失致傷罪の疑いでトラック運転手の森井達彦(58)を逮捕した。
逮捕容疑は同日の午後8時30分ごろ、黒狛市内の市道交差点でトラックを運転中に赤信号を無視し、直進中だった乗用車と衝突して転倒させ、現場から逃走しようとした疑い。
この事故により、乗用車を運転していた同市在住の会社員、津田沼英人さん(25)と、同乗していた大学生、瀬下玲子さん(20)が搬送先の病院で亡くなった。
(1992・12・25 北越新聞より)
*今日は20:30くらいにもう一話投稿します。