【14】二つの拳
赤い数珠が弾ける。
さしもの桜井と茅野も大きく目を見開いて凍りついた。
九尾は己の不甲斐なさを悔やみながら言った。
「きっと、この村を出たあと、何人かの命を糧にして力を増したんだわ……」
その言葉が事実であると認めるかのように、巨大な人影を形作った白い靄は、既に夜の帳が降りた天を仰ぎ見ながら大きく両腕を広げた。桜井と茅野に襲い掛からんとする。
「む。やるか!?」
「来る!」
桜井は身構え、茅野はスタンロッドの切っ先を突き出す。
九尾が叫んだ。
「やめて! 逃げてっ!!」
しかし、そのときだった。白い靄が揺らめきながら少しだけ後退した。
「ん……?」
すっかりやる気満々だった桜井が、怪訝な表情で首を捻る。
何かを嫌がっている……茅野はそう感じて、素早く周囲を観察した。
すると、それは白い靄の足元だった。弾け飛んだ数珠が一粒、転がっているではないか。
それを目にした瞬間、茅野は閃く。
自らの足元に転がっていた珠を右足の爪先で前方へと蹴った。
すると、その珠が当たった白い靄の足元が、わずかに霧散して煙のように消えた。
「梨沙さん! やっぱり数珠、効いてる!」
茅野が叫んだ。桜井は既に動き出していた。
散らばっていた数珠を左右の手に一つずつ拾いあげ、しっかりと握り込む。
そのまま、拳を振りあげながら、白い靄に突っ込んでいった。
「うりゃあーっ!」
やや緊張感に乏しい掛け声と共に殴りかかる。
不動明王の数珠を握り締めた桜井の右ストレートが白い靄の腹部を穿つ。
ばすん、と空気が音を立てて、その部分に穴が空く。
白い靄が身悶えするように震えた。しかし、すぐに穴は塞がる。
すかさず桜井が左のフックを振るう。
その軌道に沿って白い靄が削れる。
すぐに元通りになるが、白い靄は全身を揺らめかせて後退した。
「梨沙さん! そのまま、一気に押し込んで!」
「がってん!」
桜井は右に左にと拳を振り続ける。その回転速度は徐々にあがる。まるで、それは南海からやって来た暴風のように……。
「嘘でしょ……何なのこれ……」
九尾は唖然として、その信じがたい光景を眺めながら、よろよろと立ちあがった。
桜井が拳を振るうたびに、あの凶悪極まりない存在が身悶えをし、後退してゆく。
恐らく物理的な攻撃が効いてるという訳ではない。彼女の拳はすり抜けてダメージを与える事ができていない。しかし、その拳の中の珠は別なのだ。
桜井の拳を透過しても数珠の力を無効化できていない。
「行け……行け! そのまま、倒せ!」
茅野が拳を振りあげて叫んだ。まるでボクシングの試合か何かのノリである。
しかし、その直後だった。
白い靄が両腕を大きく広げた。
すると、周囲の暗闇が振動して歪む。
凄まじい圧力がその場にいた全員を襲う。
九尾は再び尻餅を突き、茅野も歯噛みして片膝を突く。
桜井はガードをあげて、たたらを踏みながらどうにか堪えている。
その頭上に向かって、白い靄が両腕を振りあげた。
「梨沙ちゃん、かわして!」
九尾がそう叫んだ瞬間であった。彼女のすぐ側を何者かが疾風のように駆け抜ける。
それは、茅野の横を通り過ぎ、桜井の左横に並んで拳を突きだした。
その一撃が、白い靄の腹部を貫く。
「桜井梨沙! 私もやるわ!」
東藤綾であった。
彼女の左右の拳にも、あの不動明王の数珠が握り込まれていた。
東藤の一撃によって、白い靄は両腕を振りおろす寸前で大きく揺らめきながら後退する。
「ちょっ、アヤちゃん! ヤバいって……」
と、後方から佐島莉緒がやって来る。
彼女たちは仁王門の前で数珠が弾けた辺りから、その一部始終を静観していた。
もちろん、当初の東藤は白い靄の巨大な人影を目の当たりにして恐怖に顔を引き攣らせていた。
しかし、超常的な存在へと果敢に立ち向かう桜井の姿を見て、当てられてしまったらしい。
「私を差し置いて桜井梨沙と死合おうだなんて百万年早いっ!」
東藤が拳を振るう。
「いいねえ……滾るよ」
桜井は無邪気な笑みを浮かべて再び拳を振るい始めた。
その二人の一撃一撃が振るわれるたびに白い靄がどんどんと削れ飛ぶ。再生が追いつかない。
「うりゃあー!」
「いやあーっ!」
二人の小柄な少女の何とも可愛らしい雄叫びが闇に沈んだ境内に木霊する。
そして、ついに井戸の縁まで追い詰められた白い靄は……。
「とうっ!」
「ていっ!」
桜井の右拳と東藤の左拳を同時にくらい霧散する。
その散々になった欠片は、すべて井戸の中に吸い込まれるように消えてなくなってしまった。
「か、勝った……?」
呆然と呟く九尾。
まだ完全に滅びてはいない。井戸の底で蠢いてはいる。しかし、その力は見る影もないほどに弱まっていた。
恐らく、再び力を取り戻すのには相当な時間が必要となる。
これならば、再び封印を施す事は容易いだろう。
「ふう……勝った」
額に滲んだ汗を手の甲でぬぐう桜井。
「やったわ! 桜井梨沙!」
その横で飛び跳ねる東藤。
両雄はハイタッチを交わし合う。
こうして、あの凶悪無比な怪異であった八尺様は、二人の拳によって再び深い眠りの底へと誘われたのだった。
八月十七日十九時十分過ぎだった。
静まり返った茅野邸のリビングに電話の着信音が鳴り響く。
茅野薫は自らのスマホを手に取り、画面を覗き込んだ。
着信者は茅野循。姉からだった。
薫は電話に出て、恐る恐る声を出した。
「もしもし……」
すると、受話口の向こうで何者かが鼻を鳴らす。
『もしもし、薫』
姉の声が聞こえてきた。
薫は、ほっと胸を撫でおろす。
すると、姉は極めて何気ない調子で『さっき、全部、終わったわ』と言った。
「本当に?」
薫が聞き返すと姉は笑いながら言った。
『私がこれまで貴方に嘘を吐いた事があったかしら?』
この言葉に薫は即答する。
「たくさん」
受話口の向こうで姉が笑った。
薫も笑う。
『……兎も角、明日には真っ直ぐ家に帰るから』
「うん。解った。姉さん」
『何かしら?』
「ありがとう」
『可愛い弟のためですもの。それに、私は何もしてないわ。梨沙さんに感謝して頂戴』
「桜井さんに……?」
薫も当然ながら桜井梨沙の強さは知っていたが、ああいう存在に対してまで、その強さが通用するなどと予想もしていなかった。
そして、やっぱり彼女は凄い人なんだな……と、憧れの気持ちを強くする。
このひねくれ者の姉と唯一対等につき合える心の広さと優しさを持った素敵な人。
『取り敢えず、切るわね?』
「うん。気をつけて帰ってきて……」
そう返事をしたあとに、どちらからともなく通話を終えた。
薫はしばらくリビングのソファーに座ったまま、手元のスマホを眺めてから……。
「よしっ!」
と、叫び声をあげた。
そして、何よりも忌々しく、誰よりも頼りになる姉と、その可愛らしい友人に心の底から感謝したのだった。
決戦のあと、五人は寺の境内で野宿をし、日の出を待つ事にした。
帰ろうにも、九尾が限界で動けなかったからだ。流石にへばりきった九尾を連れて、暗くなった山道を歩くのは危険が大きい。
まず桜井の持ってきたカセットコンロで湯を沸かす。水は寺の本道の裏手に湧き水があったので、そこから汲んできた。
そして、気温が洒落にならないくらい下がってきたため、暖を取るために焚き火を起こす。
その周囲にシートを敷いて車座になった。それから、改めて自己紹介や、この場所へやってきた経緯などを語りあう。
すると、そこで東藤と佐島は、スタンロッドを振るっていた背の高い少女が茅野循である事を知る。
彼女たちにとっての茅野は、あの二ヶ月ほど前に起こった青梅のバス事故のあと、奇妙なDMを送ってきた謎の人物であった。
そして、当然の話の流れとして例の一件の経緯を聞かされて、東藤と佐島は大いに驚く。
佐島にとっては色々と信じがたい話であった。
しかし、今回の一件を通して、この世には常識で図り知れないモノが存在すると実感させられたばかりの彼女は、茅野の話をどうにか受け入れる事ができた。
そして、東藤の方は「あのペンダントがあれば、いつでも桜井梨沙と戦えるのね!」と大興奮する。
しかし、九尾から処分した事を告げられると、まるで世界が終わったかのようにがっかりとしていた。
それから、それぞれが持ってきたレトルト食品やカップラーメン、お菓子などで、ささやかな晩餐を楽しむ。
桜井と東藤は格闘談義に花を咲かせ、佐島は茅野や九尾に、この手の超常的な存在について色々な質問を重ねていた。
そして、腹が満たされると、八尺様とのしのぎ合いで精神力と体力を大きく削られていた九尾が、リュックを枕にして眠りに落ちてしまった。
それを切っ掛けに、他の面々も同じように眠りにつく。
こうして何事もなく夜を越した五人は、早朝に長臑村をあとにすると、山を降りてキャンプ場へと帰還したのだった。