【13】狂女襲来
桜井と茅野は石段を必死に駆け降りる。
「……どうする、循?」
「考えてはいるけど、ほぼノーヒントなのは辛いわ」
九尾に来た道を戻れと言われはしたが、具体的な数珠の場所は不明のままだ。
この村のどこかといっても、今から二人で村内を隅々まで探すなど、どう考えても現実味に欠ける。
「……いざとなったら、鉄パイプでも探してきてぶん殴れば……」
「鉄は嫌いみたいだけれど、どうかしらね」
その直後であった。
桜井が石段を降り、山門を潜り抜けた。
唐突に女の高らかな狂笑が響き渡る。
「あははははははははははははははははは……」
門の左側から何者かが飛び掛かってきた。
「むっ、敵か……」
桜井は動物染みた反応で門の前方へと飛び退く。
小柄な人影も桜井を追尾しながら次々と腕を伸ばす。それを絶妙なステップと体捌きでかわし続ける桜井。
そして、門の右側に身を潜めていた人影が叫ぶ。
「アヤちゃん、ちょっと、待って。何か普通の女の子っぽいけど!」
その何者かの頭部へと、茅野は躊躇なくスタンロッドを振り抜いた。
青白い電光が暗闇に瞬く。
「わっ! ちょっ、待って! 危なっ!?」
だが、寸前でかわされる。
そして、茅野は己のヘッドバンドライトの明かりの中に浮かびあがった、その人物の姿を注意深く観察する。
それは、肩まで伸びた茶色い髪の快活そうな少女であった。同年代くらいに見える。格好も自分たちと同じような、いかにも山歩きに来ましたというハイカー風であった。
「誰? 今、遊んでる閑はないのだけれど……」
すると、その少女は両手をあげて敵意がない事を示し、引き攣った笑みを浮かべた。
「いや、ごめん。こんな時間に、こんなところにいるなんて、ちょっと、まともじゃない人なのかなーって、思って隠れたんだけど……」
「それは、お互い様ではないかしら?」
と、茅野がスタンロッドを構えたまま不敵に笑うと、少女は、はっとして目を丸くする。
「そんな事より、止めなきゃ……」
そう言って、突然、襲い掛かってきた何者かと攻防を続ける桜井の方を見た。
茅野もそちらへ目線を向ける。すると……。
「あははっ! 凄いっ! 凄いわっ! 流石よっ! 流石、流石、流石流石流石流石……」
「ちょっ、ちょっと、ディスタンスは、守ろうよ……ソーシャルディスタンス!」
短めのツーサイドアップの少女と桜井梨沙が、かなりハイレベルな組手争いを繰り広げていた。
「何なのかしら、これ……」
そして、茅野はその少女の横顔を見て思い出す。
「ひょっとして、東藤綾……」
あの中学二年の女子柔道全国大会決勝で桜井梨沙を敗北寸前まで追い詰め、高校柔道はおろか国際大会でも敵なし……今や日本を代表する女子柔道選手となった東藤綾である。
その東藤が、ぞっとするほど楽しそうな笑顔を浮かべながら桜井に襲い掛かっていた。
群馬県の山奥の心霊スポットで……。
何と頭のおかしい状況であろうか。
「アヤちゃん、ちょっと、ちょっと、落ち着いて!」
もう一人の少女が、東藤綾に声を掛ける。しかし、東藤は止まらない。
「莉緒! 桜井梨沙よ!」
などと、訳の解らない返答をしながら、桜井の襟元や袖を素早く取ろうとする東藤。
その手を払い落としながら、自らも東藤の襟や袖を狙う桜井。
「凄いわ! まったく衰えてない! むしろ、前よりキレてる! 凄いっ! 桜井梨沙、凄いっ! あははははははははははははははは……」
東藤に莉緒と呼ばれた少女は、右手で頭を抱えると深々と溜め息を吐いた。
そして、東藤の背後に近づくと隙をついて彼女の首根っこを掴まえた。
東藤は喉元を締めつけられ「ぐえっ……」と蛙のような鳴き声を発する。
「アヤちゃん、ステイ!」
「莉緒ぉ……だって、桜井梨沙なのよ?」
「いやいや、こんな山奥に桜井梨沙がいるはずがな……」
そこで、彼女もようやく東藤に襲われていた相手が桜井梨沙である事に気がついたらしい。
「本当に桜井梨沙がいた……」
当の桜井は身構えたまま、襲撃者とそれを止めた少女の顔を見渡して首を傾げる。
「東藤選手? ……と、誰?」
東藤の首根っこを掴まえたまま、少女は苦笑する。
「私は佐島莉緒。えっと……ごめんね? この子、桜井さんの大ファンでさ」
「大ファン……?」
眉間にしわを寄せる桜井。
東藤は途端に頬を赤らめて、うぶな乙女のようにモジモジとし始めた。
そこで、事態を静観していた茅野が声をあげる。
「それはさておき、貴女たち、この村のどこかで数珠を見なかったかしら?」
期待はしていなかった。
しかし、東藤と佐島の二人は、はっとした表情で顔を見合わせた。
「……という事は、貴女たちは、その老婆の霊に導かれて、この村までやってきたのね?」
佐島から一通りの事情を聞いたあと、茅野が聞き返すと東藤は頷く。自らのリュックの中から布包みを取り出して開いた。
中から出てきたのは、くすんだ緋色の数珠であった。
その数珠を受け取り、茅野は確認する。
「材質は赤瑪瑙かしら? この珠に刻まれた梵字は不動明王のものね」
「循、これは……」
「ええ、間違いないわ。梨沙さん」
茅野は桜井と顔を見合わせて深々と頷き合う。
そして、二人は再び山門を潜り石段を登ろうとする。
「えっ、えっ……ちょっ! 待って! どこに行くの!?」
佐島が声をあげる。
すると、茅野が振り向かずに答えた。
「この数珠、ちょっと、借りるわ!」
「えぇ……。本当に、何なの……?」
何とも言えない表情で、去り行く背中を見つめる佐島。そんな彼女の右腕を東藤が揺さぶる。
「莉緒ぉ。私たちも、桜井梨沙のところに行こ?」
小動物染みた上目使いに、佐島は溜め息を吐く。
「……まあ、このまま帰る訳にもいかないしね」
こうして、東藤と佐島も石段を駆けあがり始めた。
その頃、九尾天全は額に玉のような冷や汗を浮かべていた。
既に白い靄で形作られた巨体は井戸の縁から地面に足をおろし、九尾は元の位置から数メートルほど後退している。
その両者の周囲の空間は、霊能力を持たぬ者にでも感じ取れるほど大きく歪んでいた。
「不味い……こんなの一人じゃどうにもならない……」
既に足腰は震え、突き出した右腕の感覚がなくなりつつあった。
白い靄は不気味に蠢きながら九尾へと少しずつにじり寄る。
捕らえられてしまえば、いかに九尾とはいえ命の保証はないだろう。
「くっ、もう……」
九尾は、ぎゅっと、固く目を瞑り……。
「もう、駄目ーっ!!」
踵を返して、脱兎の如く駆け出した。
ごう……と、白い靄が風のように唸った。地を滑るように九尾の背中に迫り、右腕のようなものを伸ばす。
と、そのときだった。
「センセ!」
「お待たせ!!」
仁王門の向こうから、桜井と茅野が境内に駆け込んでくる。
「梨沙ちゃん……循ちゃん……」
九尾は二人と入れ違い、石畳の上につんのめってこけた。
「よく頑張った! 感動した!」
「あとは任せて!」
桜井と茅野が迫りくる白い靄の前に立ちはだかる。
そして、茅野が右手に握り締めた数珠を勢いよく突き出す。
すると、白い靄がぴたりとその動きを止めた。
「やった! 効いてる!」
と、桜井が喜色を浮かべたその瞬間だった。
唐突に茅野の手にあった数珠が弾け飛んでバラバラになった。
「そ、そんな……」
その光景を目の当たりにした九尾は、大きく見開いた双眸を絶望に曇らせる。
「こんなの、どうやって倒せば……」
点々と地面を転がる無数の赤い珠……。
白い靄はすべてを嘲り笑うかのように、あの音で鳴き始めた。