【06】合言葉
二〇二〇年八月十六日の夜だった。
都内某所の占いショップ『Hexenladen』の二階リビングにて。
霊能者である九尾天全は驚愕していた。
目の前にある胡桃の座卓に置かれたノートパソコンの画面には、あの“ワクワクの木”を発見してヘラヘラと笑う女子高生二人が映し出されていた。
言うに及ばず桜井梨沙と茅野循である。
九尾はリモート通話で、前日に起こった高洗町での騒動の顛末を彼女たちの口から聞いたところであった。
そして、一通り話が終わると宅配サービスで頼んだねぎま串にかぶりつき、悪い夢なら覚めて欲しいとばかりに純米酒を一気に呷る。しかし、戦慄すべき現実は終わろうとしない。
胃の腑より駆け登る酒気に喉を鳴らし眉間を指で揉みしだいた、そのときだった。
微かに聞こえてきた犬の鳴き声と共に茅野循が声をあげる。
『あら。また吠え始めたわ』
『お向かいさんの犬?』と桜井。
茅野が頷く。
『最近、よく吠えるのよね……』
『わんこ、元気だねえ』
などと、呑気そうに会話をする二人をよそに、九尾はその表情を見る見るこわばらせる。
それに気がついたらしい茅野が、きょとんと小首を傾げた。
『あら。先生、どうしたのかしら?』
九尾は唇を震わせながら、その質問に答える。
「あっ、あなたたち、他にはどこへ行ったの……?」
質問の意味が解らないらしく、画面の中の桜井と茅野は眉をひそめる。
九尾は更に質問を重ねた。
「高洗町の他に、どこへ行ってきたのって聞いているのよ。どこから、そんなモノを連れてきたの……」
『センセ、待って。昨日は本当に高洗町だけしか行ってないよ』
『どういう事かしら?』
そこで、九尾は画面に映った胡乱げな顔の茅野循を指差す。
「循ちゃんの方から凄い気配がする……何これ? 何なの!?」
それは彼方より徐々に近づいてきているようだった。
ちゃちな悪霊などではない。
それは、もっと凶悪で強力な存在……元は力のあった零落した神か、霊格の極めて高い者のなれの果て……。
九尾の尋常ならざる様子を見て、桜井は更に眉間のしわを深め、茅野は『よく解らないけど、やったわ』と右拳をぐっと握った。
すると、次の瞬間だった。
インターフォンの音が高らかに鳴り響いた。
茅野が椅子に座ったまま後ろを向く。
『誰かしら?』
「循ちゃん、それ、生きている人間じゃない」
『おっ。心霊の方から寄ってくるとは……あたしたちも有名になったもんだねえ』
桜井は極めて呑気な調子であったが、再びカメラに向き直った茅野は真顔だった。
『……忘れていたけれど、今、家に弟もいるんだった』
『あ、そか……』
と、桜井もようやく事態の深刻さを悟ったらしい。
画面の中の茅野が立ちあがる。ヘッドセットを脱ごうとしたところで、九尾が声をあげた。
「循ちゃん、絶対に開けちゃ駄目よ」
『解ってるわ』
カメラに向かって微笑む茅野。
「これは、熱々おでんとか熱湯風呂的なフリじゃないから! 本当に開けないで、お願い……」
必死に懇願する九尾。
茅野は再び『解ってるわ』と繰り返して、今度こそヘッドセットを外して部屋の扉口へ向かった。
茅野が画面から消えてから、九尾は……。
「梨沙ちゃんは、大人しく……ああっ」
と、言葉を止めて頭を抱えた。
リモート画面の中に、桜井梨沙の姿は既になかった。
「開けては駄目よ」
姉がいつになく真剣な表情で言った。
しかし、薫には彼女の言葉の意味するところが理解できなかった。
「何を言ってるの? 姉さん。また訳の解らない事を……」
扉の向こうから、母の声が聞こえる。
「薫。まだか?」
再び玄関扉へと目線を移す薫。
「ちょっと、待ってよ……」
三和土へと足を降ろそうとする。
その肩に手を置いて、茅野循は弟を制止する。
「薫」
「ちょっと。どうしたのさ?」
と、振り向いて姉に文句を言おうとする薫。
その唇に人差し指が当てられる。
目と鼻の先に悪魔のような微笑みがあった。
「取り憑かれているのは、貴方だったのね? 薫」
「え……?」
「あれは、母さんではないわ」
そう言って玄関に向かって声をかける。
「もしもし……」
すると、少しだけ間を置いて、扉の向こうから母の声がした。
「もし……」
姉は満足げに頷くと、再び玄関に向かって同じ言葉を繰り返した。
「もしもし……」
再び、母の声がした。
「もし」
薫は首を傾げる。
「今のは何なの?」
すると、姉が得意気な顔で解説し始める。
「人に化けた妖怪や幽霊に『もし』と呼び止められ、返事をすると魂を抜かれてしまうという伝承があるわ。だから、昔の人は自らが人間である事を証明する為に、人を呼び止めるときは『もしもし』と二回繰り返すようになったのだと言われているの。どうも、その手の怪異は『もし』を二回繰り返して言えないらしいのよ」
「え、じゃあ……もしかして、電話のときの『もしもし』って」
「そうね。自分が人間である事を姿の見えない相手に知らしめるため……そして、受話器の向こうにいる相手が人間であるかどうかを確かめるための合言葉ね。柳田邦男先生の『妖怪談義』にも、佐賀地方では、人を呼ぶときは必ずモシモシと言って、モシとただ一言いうだけでは返事をしてくれなかった、とあるわ」
そう言って、姉は静まり返った玄関扉へと目線を移した。
「つまり、あれは人間ではない。母さんに化けた何かよ」
「人間では……ない……そんな……」
そのときの薫には、薄暗い照明の中に浮かびあがる、いつも見慣れた玄関扉が地獄への入り口のように思えた。
次の瞬間だった。
ぽっ、ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ……。
あの音が再び扉の向こう側から聞こえ始めた。
ちょうど、その頃だった。
深夜の藤見駅裏を爆走する自転車が一台。
桜井梨沙である。
彼女が茅野邸へと近づくに連れて、犬の吠え声が大きく聞こえだす。
そして、杉沢町の住宅街の外れと田園の間に横たわる路地へと自転車が入ったその直後だった。
ペタルを凄まじい勢いで踏み締める桜井の瞳に茅野邸の玄関前が映り込む。
そこには、何やら二メートル以上はありそうな細長い靄のようなものが揺らめいていた。
そして、路地を挟んで向かいの家の犬がリードをいっぱいに伸ばして、その靄に向かって吠えていた。
「あれだな……」
桜井は茅野邸の門前で路地へと飛び降りた。自転車は無人のまま数メートル進むと、けたたましい音を立ててアスファルトへと横倒しになる。
桜井の方は着地したと同時に駆け出し、玄関前の靄へと飛び蹴りをかます。
「とう!」
しかし、その右足が着弾する前に、白い靄は霧散して跡形もなく消え去ってしまった。