【03】奇妙な音
発端は八月十日であった。
この日、茅野薫は午前中にあった部活の練習を終えると、いったん家に帰って昼食を取った。それから身支度を整えると外へ出る。
マウンテンバイクに乗って、友人の喜多海斗の家に向かった。
喜多は薫のクラスメイトで、同じくサッカー部に所属していた。ポジションはセンターバックで今年度のキャプテンを任されている。二人は竹馬の友と言ってもよい間柄だった。
なお、喜多は線の細い薫とは対照的にゴリラ染みた外見をしており、女子ウケはあまりよくない。
それは、さておき喜多の家に着いて、彼の部屋へと通されると、既に同じくサッカー部でボランチの南慶が、ベッドの縁を背もたれにして漫画を読んでいた。
彼は薫よりも小柄だがスタミナがあり、テクニックも部内随一であった。おまけに、年上の彼女持ちだったりする。
「おーう。薫、まあ好きなところに座れや」
南が扉口の薫を見ながら右手をあげた。すると、ローテーブルに肘をついて何やらスマホを弄っていた喜多が突っ込む。
「ここ、俺の部屋なんだけど!」
三人でケラケラと笑いあった。
そのあと、適当に雑談をして、落ち着いたところでサッカーゲームをやり始める。
夏休みの何気ない一時が幕を開けた。
画面の中でメッシのシュートがクロスバーに弾かれ、ゴールキックとなった。
「くっそ! 外した!」
喜多がほぞを噛む。
彼の隣でコントローラーを握る薫がにやりと笑った。キーパーが蹴り出したボールを白と黒のユニフォームを着た選手たちが、素早く前線へと繋いでゆく。
その背後では、南が再び漫画を読んでいた。
そして、薫のチームの攻撃がちょうど一区切りついた頃だった。
喜多がその話を切り出す。
「そういえば、兄貴に聞いたんだけどさ……」
「ああ。信之くん?」と薫。
喜多信之と海斗は五歳離れた兄弟である。兄の信之は現在、県内の大学に通う二十歳だ。
「兄貴がいうには、クワガタムシとかは、ものによってはけっこう金になるらしいんだよね」
そこで南が漫画の頁をめくりながら声をあげる。
「……でも、それって、オオクワガタくらいでしょ? 割りに合う値段で売れるのって」
「ところが、どっこい、そうでもないらしいんだな」
と、喜多が得意気な顔をする。
「ノコギリクワガタやミヤマクワガタは、サイズや形によっては、一匹数千円くらいで、ネットオークションでさばけるらしい」
「へえ……」と薫。
頷きながら右サイドからクロスをあげて中央に入ってくる味方選手に合わせる。ゴールが決まる。
「特に七センチを越えるサイズだと万越えもあるらしいぜ」
「万!?」
薫は驚く。南も漫画から視線をあげた。
もちろん、七センチを越える個体など、かなりの大物で早々に捕獲できるものではない。
よくて精々一匹千円。いっても二、三千円程度が現実である。
しかし、そうとは知らない喜多は、画面を見たままニヤリと笑い……。
「どうだ? ちょっと、チャレンジしてみねえか?」
南が漫画をパタリと閉じる。
「……でも、どこへ捕りに行くの?」
「そもそも、この辺りって、あんまりミヤマクワガタいないよね。ノコギリクワガタはたまに見たけど」
と、薫が言った。
喜多は悪戯っぽい笑みを浮かべ、その名前を口にする。
「願光寺……あそこならいるだろ」
このとき、部屋の壁かけ時計の針は十六時を差そうとしていた。
喜多家の倉庫から埃を被った捕虫網などを取り出し、三人は自転車で夢乃橋記念公園へと向う。
一匹、数万円。
薫はこのとき、どうせそんな上手い話なんかある訳がないと思ってはいた。
しかし、単なる暇潰しと小学生以来となる昆虫採集を久々に楽しんでみたいという思いから、喜多の話に乗る事にしたのだった。
一方の南はというと……。
「……でも、願光寺って、ガチで出るんだろ? 昔、住んでた住職の霊が……」
どうやら、怖いらしい。そんな彼を豪快に笑い飛ばす喜多。
「馬鹿だな。だから、いいんだろ。そういう噂があるから、誰も寄りつかない。つまり大物がいるんだよ」
「……でも、あそこ、クワガタとか捕れたっけ?」
その薫の質問に喜多が答える。
「うちの兄貴が子供の頃に、あの寺に行ってミヤマクワガタを捕ってきた。俺もそのミヤマクワガタを見た。間違いねえよ」
「そうなんだ。じゃあ、期待はできそうだね」
と、述べた薫に向かって南が声をあげる。
「いや、薫は、怖くないの!?」
「別に」と即答する。
薫は姉の行き過ぎたホラー趣味のお陰で、どちらかというと超常的なモノには否定的なスタンスだった。
「幽霊なんて、いないでしょ」
「そうだよなあ。南はビビり過ぎだって」
喜多が薫の言葉に同意する。
そんなやり取りをしつつ、三人は記念公園の奥へと辿り着いた。
油蝉の合唱が周囲の生温い空気を震わせていた。
山深い木々を割って延びる未舗装の坂道の入り口に自転車を停めると、三人は奥へと進む。
坂道を登って忘れ去られた墓地を通り過ぎ、沿道の椚をつぶさに見て回るが……。
「いないね」
と、薫が残念そうに言った。
樹液は出ていたが、そこに集まっているのはカナブンや蛾のみであった。
「兄貴は確か、寺の裏側で捕ったって言ってたな。あそこにでかい椚があって、樹液がドバドバ出てるらしい」
その喜多の言葉に南が眉をひそめる。
「ええ、寺まで行くの……もう、帰ろうよ……」
「馬鹿。ここまで来て、手ぶらで帰れるかよ。なあ、薫」
喜多が同意を求めて、薫が南を取りなす。
「まあ、もう少しだし、ちょっと、行ってみようよ」
南は渋々といった様子で二人のあとに続く。
やがて、下り坂の先に蔦の這った瓦塀が見えてくる。
その向こう側に、苔むして撓んだ起り屋根が臨めた。
三人は願光寺へと辿り着いた。
喜多が特に臆した様子も見せずに、願光寺の仰々しい棟門を潜り抜ける。
その後ろに薫、南が続いた。
境内は薄暗く荒れ果てていた。
どこかで小川が流れているのか、せせらぎの音が聞こえてくる。
三人は古いRPGのパーティみたいに並んで門から本堂へと続く石畳を渡る。
すると、おもむろに先頭の喜多が足を止めた。
薫はつんのめり、彼の背中にぶつかりそうになった。
「どうしたの……?」
と、怪訝に思って問うと、喜多は振り向かぬまま質問に答える。
「蝉が……鳴いてねえ……」
「は?」
薫は目を丸くする。その彼の言葉の意味が脳に染み込むのに、少しだけ時間を要した。
せせらぎの音。
わずかな木々のざわめき。
確かにいつの間にか蝉の鳴き声が聞こえなくなっていた。
そして、遠くから近づいてくる奇妙な音。
「何なの……この音……」
それは、気泡が弾けるような、ペットボトルからグラスに液体を注ぎ入れたときのような、何かが擦れ合うような……。
次の瞬間だった。
最後尾の南が悲鳴をあげた。
喜多と薫は同時に振り向く。
その表情からは完全に血の気が失せており、何かの冗談の類いではない事が一目で解った。
薫は恐る恐る尋ねた。
「どうしたの……?」
すると、南は唇を戦慄かせながら震える指先で左側を差した。
「あっちに、背の高い女がいた……」
「背の高い女?」
喜多は眉をひそめる。南は脅えた表情のまま頷いて言葉を続ける。
「黒髪の女……」
「黒髪の……女……」
喜多と薫が、そちらへと視線を向けた。
潰れた鐘突堂と蔦に埋もれた古井戸。そこには何もない。
「顔は、よく解らなかったけど……たぶん、こっちをじっと見てた」
「そ、その女は、どこだよ!?」
喜多が声を張りあげ、周囲を見渡した。
「消えた」
南の端的な言葉に薫は眉間にしわを寄せる。
「消えた……?」
すると、南は涙をボロボロと流し始める。
「消えたんだよッ! 消えた! 嘘じゃないッ!」
顔を見合わせる喜多と薫。
南は更に声を張りあげる。
「俺、もう無理! 帰るッ! もう帰る……」
そう言い残して、来た道を駆け戻り始める。
喜多と薫も、彼に続いて帰路に就いた。
このあと、南は自分が見たモノについて、いっさい語ろうとしなかった。
そういった存在を信じていない風だった喜多も、彼の事を茶化したりせず、表情を曇らせていた。
しかし、茅野薫には南の目撃した“背の高い女”の正体について思い当たる節があった。
それは、自らの姉である茅野循である。
彼女の身長は一メートル七十センチ。普通の女子の平均よりずっと高い。
そして、何より、こうした質の悪い悪戯は、彼女の専売特許である。
なぜ、姉がこの場所にいたのかは解らない。偶然かもしれない。しかし、姉は心霊スポットのようなオカルトが大好きである。もしかしたら、こうした場所ではミヤマクワガタなどより姉との遭遇率の方が高いのかもしれない。
そして、たまたまやって来た自分たちを見かけて、幽霊の振りをして驚かそうとした。
いずれにせよ、自分だけならまだしも、友だちを巻き込むなど許せない。
こうして、薫はこの一件の真相を姉に問い詰めようと思い立ったのだった。
二〇二〇年八月十一日。
菅山富一は自宅の居間で座布団に腰をおろして新聞を広げていた。
紙面に踊るコロナ関連を始めとする暗いニュースに心を痛めていると、玄関のシロが激しく鳴き始めたではないか。
「なした、シロや」
菅山はのそのそと立ちあがり玄関へと向かう。
三和土に降りて、サンダルを突っかけ玄関戸を開けた。
すると、彼は大きく目を見開く。
「なんじゃあ……ありゃあ……」
それは、向かいの茅野邸の門前であった。
女がこちらに背を向けて、二階の窓を見あげていた。
その女は黒い長髪で白いワンピースを着ており、鍔広の帽子を被っていた。何より目を引いたのは女の身長である。
菅山が瞬きを何度も繰り返して見ても、目をこすって見ても、その女の背丈は二メートル以上あった。
そして、しきりに吠え続けるシロの鳴き声の向こう側から聞こえるその音。
それは、気泡が弾けるような、ペットボトルからグラスに液体を注ぎ入れたときのような、何かが擦れ合うような音だった。
ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽ……。
女がゆっくりと振り向く。
たまげた菅山は声を張りあげる。
「また、茅野さん家じゃあ……!」
その場にへたり込むと、背の高い女の姿は跡形もなく消え失せていた。