【09】深淵を覗く者
杉の木陰から見渡す先には、大きな四角い日本家屋があった。
北方清十郎の住居である。
エントランスの手前にはジープが停車していた。
その奥の玄関戸の前で、三人の東南アジア人たちが背中を向けて何かをやっている。
がつん、がつん……と、破壊音が聞こえた。
どうやら、バールで磨り硝子を破壊しているらしい。
その光景を泥水のように濁った瞳で眺めながら、片山は考える。
そもそも、自分はなぜ、この場所にやって来たのか。
確かに以前から北方清十郎の住居については気になっていた。
しかし、今になって、なぜ……。
何かの切っ掛けがあったはずだ。
そんな事すら片山は忘れていた。どうにか、この地を訪れようと考えた切っ掛けを思い出そうとする。
そこで、片山の脳裏に生前の北方が口にした、ある言葉が甦った。
『木乃伊取りが木乃伊にならぬようにな……』
「ああ。そ、そうだ……」
片山は血の気が失せた唇を戦慄かせ、頭を両手で抱えた。
あのときの北方の言葉が、こうなる事を知っていたかのように感じたのだ。
だから、彼の元へとやってきた。
すべての謎を解くために……そして、こうなってしまった原因を探るために……。
「あぁ……あぁぁ……あぁ……」
理性が震えた。
両耳から、涙腺から……顔中のすべての穴から、正気が漏れ始めたような気がした。
同時に忘れていた記憶がフラッシュバックする。
サティーの笑顔。
艶かしい肢体。
細い首筋。
そこには、血管の浮き出た左右の手が掛かっていた。誰かの両手がサティーの喉を絞めている。
その爪の形や、肌の色、指の長さ……すべてに見覚えがあった。
片山は己の両手に目線を落とした。
「あぁ……僕は……ボクは……」
なぜ、忘れていたのだろう。
彼は自分がサティーを殺した事をようやく思い出したのだった。
蝉の五月蝿さが気に障った。
まるで、神経が剥き出しにでもなっているかのように感じられた。
片山は杉の樹の影から、おぼつかない足取りで日向に姿を現した。
すると、途端に忌々しい太陽が肌を焼き始める。まるで、古びた怪奇映画の吸血鬼にでもなったような気分だった。
気がつくと三人のタイ人の姿は消えていた。
どうやら、屋敷の中へと姿を消したらしい。あの三人も、この場所に何かの答えを求めにきたのだろうか。自分と同じように狂気の答えを……。
解らない。片山には何一つ理解できなかった。そして、彼は強い恐怖を感じていた。
しかし、このまま引き返すつもりなどない。
もう、帰れない。
こちら側に両足を踏み入れてしまったのだから……。
それが、いつからの事だったのか、片山には思い出せない。
彼女を殺したときの記憶も曖昧で、まるで映画か何かのワンシーンのように感じた。
記憶が虫食いのように穴だらけだった。しかし、柔らかい彼女の首筋の感触は、両掌にはっきりと残っていた。
その人殺しの掌に目線を落としながら、大きく深呼吸を一つする。
そして、片山は一度だけ後ろを振り返ると、もう独りでは後戻りのできない道を力強く歩き出した。
庇を潜り抜け、開いたままの玄関の敷居を跨いだ。
すると、それは三和土の正面。
レトロな調度類に彩られたロビーの奥に、何者かが佇んでいた。
亡霊のような白い衣をまとったその人物は……。
「そんな、馬鹿な……」
頭蓋が……脳髄が軋る。
それは、殺したはずのサティーだった。
時間は少しだけ遡る――。
大きな柱時計は六時三十分三十秒で動きを止めていた。
壁には陰鬱な絵画が、床の中央には英国風の応接があった。どちらも埃を被っている。
そこは、三和土からあがって、すぐ正面に広がるロビーだった。
その奥の壁には、右下から左上へと斜めに横切る階段が二階へと続いている。階段の手前の床にはエスニックな刺繍の施されたマットが敷いてあった。
ロビーの左右からは、長い直線の廊下が延びている。
ダーオルングたちは土足でロビーにあがると、左の廊下の先へと向かう。
扉を手前から一つずつ開けて確かめてゆくが、中庭への入り口はない。中庭に面した窓すらない。
けっきょく、ぐるりと一階を一周して、三人は再びロビーに足を踏み入れる。
そこでダーオルングはある事に気がついた。
「おい。あれを見ろ」と、タイ語で言って、足元を指差す。
ソムチャイとアーティットは、彼の指先へと目線を落とす。
すると、埃まみれの床に足跡が浮き出ていた。
ダーオルング、ソムチャイ、アーティットの足跡。
そして、このロビーを離れる前にはなかった見知らぬ四人目の足跡があった。
それは、ロビーを横切って奥の階段の方まで続いている。
ダーオルングは、ソムチャイとアーティットの二人と顔を合わせ、無言で頷き合うと足跡を辿って階段の前へと向かった。
階段の踏み板にも埃が積もっていたが、そこには足跡は見当たらない。
そして、階段手前の床に敷かれていたマットがいつの間にかめくれあがっていた。
そのマットに覆い隠されていた床板には、十センチほどのひび割れのような亀裂が見られた。
ダーオルングは少しだけ考え込み、そのひび割れに右手の指先を入れて引いてみた。
すると床板が持ちあがり、地下室への階段が姿を現した。
再び三人は神妙な表情で顔を見合わせる。
地下室からは物音は聞こえず、渦巻く色濃い闇の向こう側には何も見えない。
ダーオルングたちは懐中電灯を準備したあとで、ソムチャイを先頭に地下室へと降りていった。