【03】Outside
二〇二〇年八月十五日――。
ちょうど、桜井と茅野がコンビニに立ち寄っている頃だった。
それは、あの馬込祥子の遺体発見現場から程近い山林の只中であった。
深い轍に挟まれた膝丈ほどの雑草が帯をなす砂利道を行くと、そこには二メートルほどの金網の扉が道を塞いでいた。その扉は両開きで、大きな南京錠で繋がれた鎖で施錠されている。
そして、鎖には木の板がぶらさがっており、赤いペンキでこう記してある。
『この先、私有地につき立入禁止』
扉の両脇からは、物々しい有刺鉄線のフェンスが山深い木立の中を突っ切って、どこまでも延びていた。
この向こう側のすべてが、北方清十郎の所有していた土地となる。その中央に彼の住居はあった。
北方が農道で車を運転中に脳溢血を患い急逝したのは、二〇一八年の事だった。
彼は天涯孤独で人付き合いもほとんどなく、遺品は今もそのままになっているのだという。
フリーライターの片山知己は金網の目の向こう側を見つめながら、深々と溜め息を吐いた。
そして、今は亡き嶽地聖夜に想いを馳せる――。
片山の著作であり、嶽地聖夜を題材にしたノンフィクション『Outside ~首都圏外国人女性連続殺人事件の真実~』は、二〇一九年の四月に発売された。
三年に及ぶ綿密な取材によって描かれる嶽地聖夜の人物像には、迫真のリアリティがあった。
そして、彼の死刑が執行された事で、再び世間の関心が高まり、商業的には成功と言ってもよい売上げを記録する。
作者本人としても、その結果に相応の達成感と手応えを感じていた。
しかし、それでも片山には、未だにどうしても納得がいかない事があった。
まず一つは、彼が外国人女性ばかりを標的にした動機が未だに解明されていない点だった。
そして、最後となった面会のときに彼が口にした言葉。
“後継者”
それが何なのかを尋ねる前に、彼は法の裁きを受けて、この世界から去ってしまう。
本来ならば、すべての謎の答えを解き明かして本にしたかった。
しかし、嶽地の死刑が執行されたタイミングを逃すべきではないと担当編集に説得され、けっきょくは折れてしまう。
その事を片山は後悔していた。
「きっと、この向こう側にすべての答えがある……」
彼は独り言ちると、右手のスポーツバッグを足元に下ろし、ボルトクリッパーを取り出す。
これで鎖を切断しようというのだ。
そして、いざ作業に取り掛かろうとしたところで、スマホの着信音が鳴り響く。
ボルトクリッパーを再びバッグに突っ込み、カーゴパンツのポケットからスマホを取り出す。
画面を見ると、都内にある自宅のアパートからの電話だった。
怪訝そうな顔つきで首を捻り、電話ボタンをタップする。
受話口を耳に当てると……。
『知己くん?』
サティーの声だった。
「あれ……サティー? 何で……」
彼女はタイ出身で、知己とは取材を通じて知り合った。
それ以来、片山は身体目当てで彼女を家に置いている。
こうして彼女が電話を掛けてくる事など、まずあり得ないのだが……。
「これは、いったい……」
『……起きたら、知己くん、いないんだもん。今どこなの?』
流暢な日本語で、サティーは不機嫌そうに言った。
仕方がないので片山は釈明する。早朝から新幹線に乗って都心を離れ、日本海側の田舎町にいる事を。
すると、受話口の向こうでサティーの驚く声が聞こえた。
『何で、そんなところにいるの? お仕事!?』
本当は違うのだが「あ、ああ」と、曖昧な返事をすると、サティーは更に質問を重ねてきた。
『もしかして、嶽地聖夜の……?』
「あ、ああ……」
再び曖昧な返事をした。
すると、サティーは鈴を転がすように笑ってから、
『じゃあ、やっぱり、後継者になりに行くんだ』
と、言った。
片山はスマホを耳に当てたまま、大きく目を見開く。
「今、何て……?」
聞き返すと、サティーの端的な答えが受話口から聞こえた。
『後継者』
その話を彼女にしたのはいつの事だったのか、いくら記憶を探ってみても思い出せない。
何も言葉を返せずにいると、再びサティーの笑い声が耳をつく。
『知己くん、向いてるって……』
「何に?」
『だから、後継者。その資格があるって……』
「資格?」
眉をひそめる片山。
『嶽地聖夜は後継者になれなかった。もしも、北方が新しい人を見つけていなかったら、知己くんが後継者をやればいいって』
「は? だから、君はいったい何の話を……」
そう言いかけた瞬間だった。
「死んだ嶽地聖夜に聞いたの」
そのサティーの声は、受話口からではなく耳の後ろから聞こえてきたような気がした。
片山は咄嗟に振り返る。
しかし、そこには何もない。
酷く荒れ果てた砂利道が山林の向こうへと伸びているだけだ。
「サティー?」
問い返すが返事はもうない。通話は既に終わっていた。
じっとりと汗ばむような暑さ。
しかし、身体の芯は冷え冷えとしていた。
片山は胡乱げな眼差しで、手元のスマホを見つめる。
そうしていると、不意に蝉の鳴き声を割って、車の走行音が聞こえてきた。
どうやら、こちらへと近づいてくるようだ。
片山はスマホをポケットにしまうと、スポーツバッグを持って左側の茂みに隠れる。
しばらく、草むらの中に身を屈めていると、一台のジープがやってきて、扉の前に停まった。
中から三人の東南アジア系の男が降りてくる。
彼らは扉の前で何事かを話し合ったのち、もう一度ジープへと乗り込んだ。
すると、ジープは数十メートル後方へとバックする。
次の瞬間、猛然と扉へと向かって突っ込んでいった。
けたたましい破壊音が鳴り響き、木々の梢から山鳥が一斉に飛び立つ。
一度の体当たりでは、扉板がひしゃげるだけであった。しかし、何度も体当たりを繰り返すうちに、蝶番が壊れて扉板が吹っ飛んだ。
ジープはそのまま、フェンスの奥へと消えていった。