【01】未解決事件
二〇〇〇年の初夏だった。
風に吹かれて木漏れ日が揺らめく。
その最中、果物ナイフを握り締めながら立ち尽くす子供の姿があった。八歳の嶽地聖夜である。
彼の頬っぺたには、血の滲んだガーゼが乱雑に当ててある。よく見れば、右の目蓋も少しだけ腫ぼったい。
そして、足元に置かれた段ボール箱には一匹の仔猫が弱々しく蠢いていた。
まだ産まれて間もない。庇護対象を求めて必死に泣きわめいている。
まるで自分自身と同じだ……。
そう思った嶽地は、おもむろにしゃがみ込むと果物ナイフを高々と振りあげた。
その次の瞬間だった。
「おい。坊主。そこで、何をしている?」
驚いて顔をあげると、老いた大柄な男が十メートルほど前方にある杉の幹の影から、こちらを覗き見ている事に気がついた。
これが嶽地聖夜と北方清十郎の出会いであった。
二〇二〇年の八月も折り返し地点に差し掛かろうとしていた。
この時期、例年通りならば、さしもの桜井梨沙と茅野循もそれぞれの家のお盆の行事をこなすはずであった。
しかし、世はコロナ禍である。
遠方の親戚縁者との交流は自粛され、各自治体のイベントなどは軒並み中止となった。
そうなってしまえば、お盆期間にやる事など、墓掃除と墓参り、仏壇にお供えする程度である。
そうした諸々の恒例行事を十四日に終わらせた二人は銀のミラジーノに乗り込み、十五日の朝っぱらから県央の山間部へと向かっていた。
無論、心霊スポット探訪である。
彼女たちの辞書には自重という二文字は存在しないのだ。
ともあれ、銀のミラジーノは国道を渡り、県央の内陸部へと辿り着く。
やがて、古びた町並みを抜けると、車窓を流れる景色は広大な田園風景に変わり、いつの間にか万緑の山深い森へと移り変わった。
すると、そこで、のんびりとしたステアリングを見せていた桜井が、おもむろに口を開く。
「……で、今回のスポットは、どんな感じなの?」
その質問に助手席の茅野が待ってましたとばかりに答え始める。
「今回は、未解決事件の舞台よ」
「……と、いう事は、サイコ野郎か」
桜井がぺろりと舌舐めずりをした。犯人をどつき回す気満々の顔である。
「……で、どんな事件だった訳?」
質問を受けて、茅野が解説を始める。
「今から三十六年も前の事件よ……」
「ずいぶんな昔だね」
それは一九八四年の七月二十六日の深夜であったという。
県央の山間部に位置する高洗町在住の馬込祥子という中学二年生の少女が外出したきり帰らないと、彼女の両親から警察に通報があった。
「……当時、彼女は十六時過ぎに近くのスーパーへと買い物に向かうため、自宅を後にしたらしいわ。そのとき、玄関で母親に目撃されたのを最後に、彼女は消息を絶っている」
そして、三日後の早朝。
馬込祥子は自宅から二キロ離れた山林の中で、遺体となって発見された。
「発見したのは、付近を犬の散歩で訪れていた四十代の男性だったそうよ。死因は頸部圧迫による窒息死。他にも腹部や顔面などに十数ヶ所の殴打の痕が見られた。着衣は乱れており、性的な暴行を受けた形跡があった。被害者の体内から検出された体液により、犯人の血液型はO型だと判明したわ」
茅野が事実を淡々と述べると、桜井は「……ふうん」と、気のない返事をした。
「……当初は目撃証言から、犯人は遺体発見現場の付近に住んでいた職業不詳の男が有力な容疑者とされた。男は過去に交際女性に対する傷害で前科があったらしいの。周囲の評判も悪く、知人はみんな『あいつならやってもおかしくない』と口を揃えて証言したそうよ。しかし、その男の血液型はA型。捜査は振り出しに戻った」
そこで茅野は一息吐くと、ドリンクホルダーからペットボトルの甘ったるいカフェオレを手に取り、口をつける。そして、右手を真上に向かってぱっと開いた。
「けっきょく、そのまま、事件は一九九九年七月二十七日に控訴時効を迎えたわ」
「残念無念」
そう言って、桜井が肩を落とすと、茅野は話をまとめにかかった。
「……そんな訳で、今回は、その遺体発見現場に行ってみたいと思うわ」
「被害者の霊でもでるとか? なら可哀想だからパンチはなしだね」
桜井は“霊であれば何でも殴る”といった狂戦士ではない。その辺りの分別はしっかりと持っているのだ。
「確かに、ご多分に漏れず、そういった噂はあるらしいわ。ただ、今回のスポットは、それだけではないのよ」
「……と、言うと?」
その桜井の言葉に、茅野は悪魔のような微笑みを浮かべる。
「その遺体発見現場の近隣の町に、あの嶽地聖夜の生家があったらしいわ」
「何!? あの、たけちせいやだと……」
桜井は驚いた様子で目を見開いたが、すぐにしょんぼりと眉をハの字にした。
「いや、嘘。誰だっけ? その人……」
「二〇一三年から二〇一四年に、首都圏で少なくとも六人の女性を強姦、殺害した連続殺人鬼よ」
「ああ……あの外国人女性ばっかり狙ったやつだっけ?」
桜井も思い出したらしい。
「そうね」と茅野が頷いた。
「その嶽地って人が、馬込さんの事件に関係が……」
「ないでしょうね」
茅野が桜井の言葉をぴしゃりと遮る。
「馬込さんの事件が起こったのは、嶽地が生まれる八年前よ。まだ母親のお腹の中にすらいないわ」
「まあ、そっか」
桜井は得心した様子で頷く。
「ただ……」
そこで、茅野は意味深な微笑みを浮かべた。
「で、片山知己というルポライターの書いたノンフィクションによれば、その遺体発見現場の周囲の山林で、幼少期の嶽地聖夜は動物を虐待していたらしいの」
「うへえ……」
桜井は渋い表情で舌を出す。
「更に、三十六年前に容疑者とされた男性と嶽地は懇意にしていたというわ」
「ええ……でも、その人は、別に馬込さんを殺した犯人ではない普通の人なんだよね?」
「まあ、そうね。普通かどうかは何とも言えないけれど」
「うーん」と眉間にしわを寄せる桜井。
車は法面モルタルに挟まれた坂道に差し掛かる。
「三十六年前の事件と嶽地の事件……何か、繋がっていそうで、繋がっていないところが、何とも言えないねえ……」
坂道が終わり、車窓は再び田園風景へと変わる。
「……土地が呪われちゃってるパターンかな?」
「どうかしらね……?」
と、不敵な笑みを浮かべながら答える茅野。
「何にせよ、謎解きを楽しめるに違いないわ」
「だね」
と、元気よく答えながら、桜井は横目で標識に現れた目的地の名前を確認する。
こうして、二人は高洗町へと辿り着いたのだった。