【09】被疑者死亡
二〇〇六年八月十三日の事だった。
来津市朝日野町の住宅街の外れにある小料理屋『竹禅』の入り口の戸が開かれ暖簾が揺れた。
「おーう、またな! 十七までこっちにいるから、またメールくれや」
と、赤ら顔で戸口から店内に向かって手を振るのは、二十九歳になった島舘洋一 であった。
島舘は来津高校を卒業後、隣県の企業に就職し実家を出ていた。
この日の彼は、お盆休みを利用して帰郷し、実家近くの店で、久々に地元の同級生たちと旧交を暖めていた。
しかし、明日の早朝から家族で墓掃除を行う事になっており、彼だけ早めに帰宅する事にしたのだ。
島舘は店を出たあと、夜闇に沈んだ朝日野町の古びた住宅街を独り歩く。
真昼の炎天下の熱がまだ微かに残っていたが、夜風が涼やかで心地よい。アルコールで火照った身体がゆっくりと冷やされてゆく。
家々から漏れるテレビの音と、遠くの田園から聞こえる蛙たちの鳴き声。
その他には自分の足音しか聞こえない。
そんな中を五分ほど歩くと大通りに辿り着く。
この通りを渡って三分ほどで彼の実家に辿り着くのだが、ふと視界の端を過ったコンビニの明かりに心惹かれてしまう。
島舘は酔い醒ましの飲み物と、切れていた煙草を購入する為に寄り道する事にした。
店内には誰もいない。
彼とそう歳の変わらなそうな店員が、眠たそうな顔でレジカウンターに立っていた。
島舘は目的の物を購入すると、店外へと出た。
ニコチンへの欲求が高まっていたので、そのまま入り口を出て左側の軒下の喫煙スペースへと向かう。
そして、煙草の包装を外し、ズボンのポケットからライターを取り出した、その時だった。
鼠色のジャージとよれたTシャツを着た男が駐車場を横切り、入り口の方へと歩いてゆく姿が目に止まる。
オドオドと背を丸めた男の横顔が、コンビニの照明に浮かびあがったとき、島舘は驚く。
杉川正嗣だ。
島舘は右手を振りあげる。
「おーい! 杉川!」
鼠色の男がぴたりと足を止めて顔を向けた。少し肥ってはいるが、間違いなく杉川だった。
島舘は煙草をくわえて、火をつけると杉川の方へと歩み寄る。
「おい、杉川、久し振りだな! お前、今、何やってんの!?」
慣れ慣れしく彼の肩を左手で叩いた。
島舘の中で杉川という存在は、未だに高校生のときのままだった。
気弱で何をやっても逆らおうとしない。
あの告白の一件も、焚きつけられて勝手に告白した杉川の自業自得であり、そのあと登校拒否したのは彼の弱さが原因であると考えていた。
むしろ、一部で杉川に同情的な者たちが島舘の悪ふざけを非難した事もあり、自身は被害者であるとすら思っていた。
女にフラれた程度で登校拒否などと……。
だから、このときも彼は、杉川と久し振りに遭遇した事を同級生たちとの話のネタにするためだけに彼に近づいた。
あれ以来、惨めな人生を送っているであろう彼を嘲笑い、さもしい優越感を得る為だけに。
「何だよ、その格好。寝起き?」
そう言って、白煙を夜闇に向かって吹き出す。
すると、杉川の顔がくしゃりと怒りに歪んだ。
「島舘……」
「あ? 何その顔」
「お前のせいで、僕は……」
「は? まだアレ、根に持ってるの? もういいじゃん」
島舘はヘラヘラと笑って肩を竦める。
「……つーか、あのあと、何か俺が悪者みたいな感じになって、むしろムカついてんのは、こっちなんですけど?」
と、言い終わったのと同時だった。
島舘は左頬に衝撃を覚えた。
途端に平衡感覚を失い、彼の身体が右後方へと傾いだ。
そのとき、ようやく島舘は杉川に殴られたのだと悟る。
彼の右手の指先に挟んだ煙草が落下して火花を散らし、生温いアスファルトの上を転がった。
そのまま彼の後頭部は縁石の角へと吸い込まれていった。
ぐしゃり……と、瑞々しい打撃音が頭部全体を震わせ、彼の意識を完全に刈り取った。
「……島舘くんは打ち所が悪くて、即死だったそうよ」
苅田は俯いたまま、十四年前に起こった事件について、とつとつと語る。
彼女の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「そして、杉川くんも……」
その事件のすぐあとに、彼の両親から『息子が部屋で首を吊って死んでいる』との通報が警察にあったらしい。
ほどなくして目撃証言やコンビニの防犯カメラなどから、島舘殺害への彼の関与が浮上。
けっきょく、事件は被疑者死亡のまま書類送検され、静かに幕を閉じたのだそうだ。
「元々の原因は島舘くんにあったにしろ、あのとき、私がもうちょっと、うまく彼を傷つけないようにできていたら……」
声を震わせ、苅田はついに泣き出してしまった。
苅田が落ち着いたあと、杉川正嗣の実家の場所を聞き出してから、全員でファミリーレストランを後にした。
話によれば、今は誰も住んでいないらしく、長らく空き家になっているのだそうだ。どうやら、彼の両親は事件後にひっそりと、どこかへ移り住んだらしい。
苅田には、事の顛末や更に詳しい事情を後日説明すると約束し、駐車場で別れる。
そして、再び四人は車に乗り込んだ。
「で、循。何か解った?」
桜井の雑な問いかけに、助手席に座る茅野は思案顔でスマホに指を這わせながら答える。
「……まず、苅田先生の話を聞いて、疑問に思った事があるわ」
「それは、いったい」
「渋谷さんに取り憑いた霊が杉川正嗣本人だとすると、恋慕していた苅田先生本人が近くにいるにも関わらず、なぜか彼女には何の干渉もしていない」
「もう苅田先生は結婚しちゃったし、歳もまどっちの方が若いし……」
と、西木がなかなか酷い事を言い出す。
「それでも、なぜ渋谷さんだったのかが解らない。そもそも、あの下駄箱を使った人は今までにも、たくさんいたはずよ。もしかしたら、これまでに、渋谷さんと同じく、あの手紙をもらった人がいたかもしれないけど……それなら、もっと、この怪異が噂話として広まっていてもおかしくはないと思うのだけれど」
「確かに来津高校にも学校の怪談みたいなのはあるけど、あの下駄箱と手紙の話は聞いた事がないかも……」
と、渋谷が不思議そうに首を捻った。
「それに、すべての元凶とも言える島舘なる人物は既に死んでいる。それならば、彼をこの世に縛りつけてるものはいったい何なの?」
「確かに……」と、西木。
そこで、桜井が声をあげる。
「そう言えば、九尾センセのタロットとアマビエもよく解んないよね」
その言葉に茅野があっさりと答える。
「タロットの方は解ったわ」
「マジで!?」
「あのタロットは三枚とも矢車菊を示している」
「どゆこと?」
桜井が眉間にしわを寄せ茅野が解説する。
「まず『女帝』だけど、あのカードのライダー版の絵柄には、麦畑が描かれている。英語で矢車菊はcornflowerと呼ばれている。この“corn”は玉蜀黍ではなく、小麦の事。“小麦畑の脇に生える花”という意味ね」
「ふうん」
桜井がいつもの話を聞いているのか、いないのかよく解らない相槌を打つ。
茅野の解説は続く。
「次に『皇帝』だけれど、ドイツが帝政だった頃、矢車菊は国花に定められていて“皇帝の花”と呼ばれていた」
「へえ……」
と、感心した様子の西木。
「じゃあ、最後の『運命の輪』は?」
「『運命の輪』は、シンプルに矢車菊の花の形を示しているのだと思うわ。“矢車”とは、鯉のぼりの先についている車輪の事よ。矢車菊の花は、その矢車に形がよく似ているの」
「そっ、そうなんだ……」
渋谷は『流石に、こじつけじゃないのか?』と思ったが突っ込まなかった。
「本当に、あのツーサイドアップのアマビエ。それだけが解らないわ。残念ながら」
そこで桜井が肩を竦める。
「循にも解らないとなると、よほどの謎だよ」
「でも、九尾先生がお風呂からあがったようだから、本人に聞いてみましょう」
そう言って、茅野は以下の文面のメッセージを送る。
『で、先生。タロットの方は理解できたけれど、あのアマビエは何なのかしら?』
すぐに返信がある。
『アマビエって、あの女の子のイラストの事?』
「はい?」
流石の茅野も目が点になる。
「どしたの?」
桜井が茅野に尋ねると、更に九尾からメッセージが送られてくる。
『何か、あの梨沙ちゃんから送られてきた写真を視たら、頭の中に女の子のイラストが浮かんだの』
『白いゴスロリドレスを着た黒髪のツーサイドアップの女の子。何かのアニメか漫画のキャラみたいだけれど』
「……どうやら、あれは何らかのアニメか漫画の美少女キャラのイラストらしいわ」
茅野が呆れた様子でそう言うと、桜井が大きく目を見開く。
「あれ、人間の絵だったの!?」
そして、西木と渋谷も納得のいかない顔で頷き合う。
「アマビエだよね、まどっち」
「うん。あれは、アマビエだよ……」
車内は一瞬にして、驚きと困惑に包まれた。