【05】信じる心
二〇二〇年八月九日の十五時頃。
この日も雨だった。
びしょ濡れのフロントガラスの上を一組のワイパーが息のあった動きで左右に滑る。
桜井と茅野は銀のミラジーノに乗って来津駅へ。待ち合わせていた西木と渋谷を拾う。
そこから四人で市の郊外にある橘満也の家へと向かった。
既に彼は来津病院より自宅へと帰ってきているのだという。
もちろん、単なるお見舞いではなく事故の話を詳しく聞くためである。
どうやら橘の方も、自分の身に降りかかった出来事について誰かと言葉を交わしたかったらしい。
西木の友人であり『例のストーカーに関する一件について相談に乗ってもらっている』という事で、桜井と茅野の同席も許可してくれた。
ともあれ、銀のミラジーノは、田んぼを埋め立てて作られた新興住宅街の碁盤目状の路地を行き、橘家へと到着する。
門前から芝を割って続く踏石を渡り、庇を潜り抜けて呼び鈴を押した。
すると、ややあって、扉の向こうから橘の母親が顔を覗かせる。
母は女子が四人も息子の見舞いに押しかけてきたと知り一瞬だけ、ぎょっとした表情をするが、快く家にあげてくれた。
四人は二階にある橘の部屋へと通される。
彼は意外に元気そうだった。しかし、手先や足首に巻かれた包帯はやはり痛々しい。
話によれば軽い打撲と擦り傷だけで済んだのだという。
部屋は手狭な六畳で、目に入るものといえば、勉強机とノートパソコン、お洒落な卓上スピーカー、大きな本棚ぐらいだった。
一同は部屋の中央にある円形の座卓を囲んで腰をおろす。
桜井と茅野が改めて簡単な自己紹介を始めた。
もちろん、オカルト研究会云々という胡散臭い話は一切しない。
茅野が『自分たちもストーカーの被害にあった事があり、その経験をいかして渋谷の相談に乗っている』という、もっともらしい嘘を吐く。
橘は少しだけ訝しげであったが、生来の事なかれ主義からなのか、特に何も疑問を挟むような事はしなかった。
そして、人数分の飲み物とクッキー入りの菓子箱を持ってきた橘の母親が退室したのを切っ掛けに、茅野が口火を切る。
「……それで、事故の状況を詳しく教えて欲しいのだけれど」
橘満也は、その端正なしょうゆ顔を曇らせる。
因みに『彼が信号待ちの最中におかしな男に腕を引かれて車道に飛び出した』という話は、渋谷を通じて既に他の三人にも伝わっていた。
「その男が渋谷さんにつきまとっているストーカーかもしれないわ」
「……そいつは、いつの間にか、目の前に現れたんだ」
「いつの間にか……?」
と、茅野は眉間にしわを寄せて聞き返す。一方でクッキーに手を伸ばしパクつき始める桜井。西木は黙って話を聞く構えを見せていた。
橘が青ざめた顔で話を続ける。
男の背格好や、男が雨に濡れていなかった事、男が現れる前に甘い花の香がした事など……。
更に本日の昼頃に橘家へと訪れた警察によると、加害者側の運転手は『橘が独りでフラフラと赤信号の横断歩道に飛び出してきた』と証言しているのだとか。
他の目撃者からも同様の証言があがっているらしい。
幸いにも大事には至らず、事故の後始末は示談で話がつきそうなのであるが、橘としてはどうにも納得がいっていなかった。
「もう俺、訳が解らないよ。あの男は何だったんだ? 確かにいたんだ。本当なんだよ……俺は、あのとき確かに右腕を掴まれて……」
橘は俯いて両手で顔を覆った。
すると、そこで極めて呑気な声をあげたのは桜井だった。
「取り合えず、信じるよ」
「ええ、そうね」
と、茅野もあっさり同意して頷く。
「は?」
驚いて顔をあげたのは、橘だった。
「信じるって、今の話を……? 信じてくれるの?」
こんな出来の悪い嘘のような話など、普通だったら信じられる訳がない。
しかし、桜井と茅野は、あくまでも平然とした調子だった。
「え、うん」
「そういうのは、よくある事よ」
「は? よくある事って……」
橘は、ますます困惑する。
そこで、西木が呆れ顔で肩を竦めた。それを目にした橘はますます不安になる。
「まあ、最近にしちゃ、普通のやつだね」
そう言って、桜井がおもむろに座卓の向かい側に座る橘へとスマホのカメラを向けた。
茅野が右手をはためかせながら、彼の隣に座る渋谷に向かって指示を送る。
「渋谷さん、もう少し彼に寄ってくれるかしら?」
「え? うん……」
訳も解らず渋谷が橘に肩を寄せる。
「うーん、いいねえ……じゃあ、撮るよー?」
と、言い終わらないうちにシャッターを切ると、その撮影した写真をメッセージに添付して送信した。
九尾天全を用いた心霊探知法である。
「これで、よしと……」
すぐに既読はつかなかった。
どうやら、忙しいらしい。
再びもしゃもしゃと、クッキーを食べ始める桜井。
「しばらく、結果が出るまで待ちましょう」
茅野が、そう言って麦茶を啜る。
渋谷は困惑したまま、西木に尋ねた。
「今のはいったい……」
「大丈夫。この二人に任せておけば、悪いようにはならないから」
西木は苦笑して菓子箱のクッキーを一つ摘まんだ。
渋谷はきょとんとした表情で、橘と顔を見合わせた。
刻々と時間は過ぎ去る。
九尾からの返信は来ない。
茅野と西木は、スマホを弄り始めてしまった。
桜井はクッキーを食べ終わり、本棚にあった漫画を読み始めた。
外から聞こえる雨音だけが耳を打つ。
重く湿った沈黙。
そんな中で、渋谷がおもむろに謝罪の言葉を発する。
「ごめんね? 満也くん」
「え、何が……?」と橘。
「私が満也くんの事を巻き込んじゃったんだよね……」
彼の腕を引いた謎の男が現れる前に、例の甘い花の香がしたのだという。
その男がいったい何なのか解らない。
しかし、その人物こそ、自分につきまとっているストーカーなのだと渋谷は確信した。
「それなのに、私、満也くんに『彼氏なら、何とかして』だなんて、勝手な事を言って……」
「馬鹿。それは、もう済んだ話だろ」
橘が気安い笑みを浮かべる。
しかし、対照的に渋谷は両目に涙を浮かべながら頭を振る。
「ううん。けっきょく、私のせいで満也くんが危険な目に遭ってるし……」
そこで、橘は渋谷の肩を力強く抱き寄せる。
「円香のせいじゃない。俺の方こそ、ごめんね。怖くて心細い思いをしていたのは円香だったのに……俺、やっぱり、彼氏失格だよ」
「やめてよ……」
そこで渋谷が橘の胸を押して突き放す。
「円香……」
唖然とした様子の彼に向かって、渋谷は泣きながら笑う。
「私たち、もう、別れましょ?」
「円香」
「そうすれば、その変な男が、満也くんに危害を加える事は、なくなるでしょ? 狙われているのは私なんだから……」
「でも……」
納得いかない様子の橘。
そして、手元のスマホや漫画に目線を落としながら聞き耳を立てる桜井、茅野、西木であった。
渋谷は、その頬に星屑のような涙を伝わせる。
「私、これ以上、満也くんに何かあったら、私……」
「馬鹿!」
そこで橘が渋谷を力強く抱き締める。
「馬鹿円香……そんなの、俺だって同じだ! 俺だって、お前に何かあったら!」
「満也くん……」
「俺が守るから……俺がお前の事を絶対に守ってみせるから……!」
「満也くん……満也くん……うわああああん」
渋谷の泣き声が雨音を掻き消す。
橘は渋谷の肩を押さえながら、彼女の濡れた瞳を真っ直ぐな眼差しで覗き込む。
「俺は円香を守りたい。だから、俺を円香の彼氏でいさせて欲しい……駄目かな?」
二人は見つめあう。鼻先の距離が徐々に短くなる。
「駄目……じゃないよ。満也くん」
吐息が重なりあう……。
その瞬間であった。
とつぜん、けたたましい音が鳴り響き、座卓の上のグラスがすべて倒れた。
次の瞬間、空の菓子箱が吹っ飛んで、真上の蛍光灯にぶち当たって落下した。
その場にいた全員が背筋を震わせて、凍りついた。
※少し投稿が遅れました。すいません