【02】実害
ちょうど、桜井と茅野が藤見市郊外のショッピングセンターで、渋谷から相談を受けている頃。
ベランダから荒川区が一望できる都内の高層マンションの一室であった。
ライトノベル作家の寺井秀太は、書斎机に向かってスマホを弄っていた。かれこれ、三時間近くになる。
「糞……糞野郎……」
もちろん、仕事をしている訳ではない。
動画サイトを見たりソシャゲをプレイしたり……彼はずっと気分転換だけを続けていた。
そして、机の上には彼が目を背け続ける現実……ノートパソコンが開かれたままになっている。その画面はスリープ状態になって久しい。
彼は『キズダメ』の十二巻が発売されて以降、ずっとこの調子であった。
朝起きて机に向かい、パソコンを立ちあげる。一文字も書けない。気分転換をする。そして、気がつくと日が暮れている。明日は頑張ろうと決意して寝る。
その繰り返し、その繰り返し……。
寺井は『キズダメ』の十二巻が酷評されて以来、すっかりと自信を失い、書くのが怖くなってしまっていた。
「畜生……畜生……あの裏切り者どもめ……」
彼の脳裏にネット上の罵詈雑言が溢れ返る。
誰得。胸糞展開。なろう系以下。精神的ブラクラ等々……。
ファンたちは、これまでの絶賛が嘘のような掌返しを見せたが、それも無理からぬ事であった。
元々『キズダメ』は、幼馴染みの女子にフラれ、何をやってもうまくいかない主人公が、ひょんな事から出会ったヒロインにひたすら甘やかされ、自尊心を取り戻してゆくというストーリーだった。
基本的には、主人公とヒロインを取り巻く何気ないやりとりや平凡な日常が描かれている。波瀾には乏しいが、共感を呼ぶ心理描写やキャラ同士の絶妙な掛け合いが、この作品の売りといえた。
それは、誰も傷つかない癒しのストーリー。
しかし、その方向性は十二巻で一変してしまう。
これまで、ときおり物語のスパイス程度に登場を重ね、読者のヘイトを一身に集めていた幼馴染みキャラの“不幸な生い立ち”が、唐突に明かされた。
それが原因で、彼女は泣く泣く主人公の告白を断ったという事らしい。
因みに、そこに至る伏線は一切ない。取ってつけたような後出し感満載の設定であったのだが、それだけならまだマシだった。
これまで、ずっとヒロイン一筋であった主人公が、その幼馴染みに同情し、再び彼女に急接近し始める。
すべての元凶であり、常に嫌味で、辛辣な言動を取り続けた幼馴染みに、取ってつけたような設定一つで気を許し始める主人公。
ここまでなら、まだマシだった。
何と、主人公は、その幼馴染みの為に、これまで傷心の彼をずっと支えてきたヒロインを蔑ろにし始めたのだ。
更に最悪な事に、ぽっと出の新キャラのイケメン男にヒロインが心惹かれ、唐突に修羅場が訪れる。
『キズダメ』が最初から、そうした錯綜する恋愛模様を描いた物語であれば、この展開もありかもしれない。
しかし、返す返すも、読者が『キズダメ』に求めていたものは、ほっこりと癒されるストーリーであった。
誰も男女間のギスギスなど望んでいなかったのである。
「何が……何が、正解なんだよ。畜生め……」
その呟きの答えは、いくらソシャゲのガチャを引いたところで得られるものではなかった。
こうして、寺井はこの日も一文字も書く事ができずに一日を終えたのだった。
「……で、循、何か解った?」
桜井が問うと、茅野はジップロックの中の手紙に目線を落としながら首を横に振った。
「まだ、何とも言えない」
「そか」
と、桜井が素っ気なく答えたあと、茅野は視線をあげた。
「この手紙を預かりたいのだけれど、よいかしら?」
「え、うん。構わないけど」
渋谷が同意する。
「それから、もう一つ」と、茅野は右手の人差し指を立てる。
「貴女の彼氏にも、話を聞きたいのだけれど。彼も来津高校の出身なのよね?」
「うん……でも……」
と、なぜか浮かない顔をする渋谷。
そんな彼女を西木が気遣う。
「どうしたの、まどっち?」
「ああ、うん……」
と、言いづらそうに、言葉を口内でさ迷わせる渋谷。
そんな彼女に対して、茅野は問う。
「もしかして、彼氏とは、あまり上手くいっていないのかしら?」
渋谷は大きく目を見開き、力なく項垂れて首肯した。
「実は、最初は彼……橘満也くんって言うんだけど……」
そこで西木が「彼も中学のときのクラスメイトだよ」と情報を補足する。
渋谷は更に言葉を続けた。
「……満也くんは、手紙を悪戯だって決めつけて、視線を感じるっていう私の話も真面目に取り合ってくれなくて……それが原因で、喧嘩になって……」
「だから、今日は、彼氏と一緒じゃなかったのね?」
この茅野の言葉に悲しそうな顔で頷く渋谷だった。
そして、桜井が場の空気にそぐわない呑気な声音で言う。
「まあ、別に今のところ、キモい手紙が二通きただけだしね。無言電話は無関係で、視線を感じるのは気のせいかもしれない……まだ、深刻な実害が出た訳ではないからねえ」
「でも、恋人がストーカーされているかもしれない割には、楽観的過ぎる気もするけど……」と茅野。
続けて西木に話を振った。
「西木さんから見て、その満也くんは、どうだったのかしら? そういう楽観的な考え方をする人だったのかしら?」
西木は少しだけ言いづらそうに、渋谷の恋人である満也なる人物の人柄を述べる。
「まあ、よく言えば、争い事を好まない優しい性格で、悪く言えば、事なかれ主義の面倒臭がり……かな?」
と、言ってから渋谷に向かって、手を合わせ「ごめん、まどっち」と、謝罪する。
渋谷は苦笑しつつ彼女の言葉を受け入れたようだ。
「まあ、西木さんの言う通り、そんな感じかな」
「じゃあ、その彼のリアクションは、そこまでおかしい訳ではないんだね?」
と、桜井が確認すると、渋谷は不服そうな顔で「うん」と返事をする。
そこで茅野が声をあげて話をまとめにかかる。
「まあ、何にせよ、現時点では、学校の下駄箱に手紙が入れられていた事を考えると、ストーカーは来津高校の関係者で、貴女たちに近しい人間である可能性が高いわ。それなら当然、ターゲットである貴女の彼氏の話も聞かない訳にはいかない。お願いできるかしら?」
渋谷は数秒だけ躊躇したのち、スマホを取りだし、メッセージを打ち始める。
すると、その直後だった。
渋谷がとつぜん鼻を鳴らしながら、不安げな表情で視線を周囲に惑わせ始めた。
茅野は桜井と顔を見合わせたのちに問うた。
「どうかしたのかしら?」
「また、この臭い……」
渋谷が、そう言いかけた瞬間だった。
唐突に電子音が鳴り響く。
彼女が手に持ったスマホが電話の着信を告げたのだ。
「満也くんからだ」
慌てて電話ボタンをタップし、受話口を耳に当てる渋谷。
「……もしもし……はい……はい……え……はい……」
徐々に彼女は表情を失い、その声音は上擦っていった。
桜井、茅野、西木の三人は、固唾を飲んで、渋谷の様子を見守る。
どうも、漏れ聞こえてくる声を聞く限り、通話相手は満也ではなく年配の女性らしい。渋谷も敬語だった。
そして、しばらく渋谷が一方的に相づちを打って、通話は終わる。
すると、大きく目を見開いたまま、渋谷は指先を震わせてスマホを耳元から下ろした。
西木が恐る恐る問い質した。
「誰から? まどっち……」
「満也くんのお母さん……」
すると、渋谷の両目から涙が溢れる。
「満也くん、交通事故で、さっき病院に運ばれたみたい……」