【09】現実
黒騎士アレスは逃げ出した六月を追って、竹藪に飛び込んだ。
林立する竹と竹の間を通り抜けながら奥へと進む六月。
しかし、黒騎士アレスの方はというと、身体が大きい為に思うように進めない。
「ぬう……邪魔だ……」
苛立った黒騎士アレスは、矢鱈滅多に片手剣を振り回す。
すると、乾いた小気味よい音が鳴り響き、頭上がざわめきに包まれる。
刹那、黒騎士アレスの周囲にあった竹が次々と倒れ始めた。
六月は足を止めて振り返る。そして、頭上を見あげて倒れかかってきた竹を避ける。
黒騎士アレスもまた自らに向かって倒れてきた竹を片手剣で払い除ける。
やがて、すべての竹が倒れ終わり静まり返った。
そこで黒騎士アレスは、かつての仲間に向かって手を伸ばし叫んだ。
「帰ろう! 『酔いどれ火竜亭』にっ! またみんなで冒険をしようっ!」
すると、六月は鹿爪らしい顔で言う。
「貴方は、おかしいと思わないのかしら?」
「おかしい?」
黒騎士アレスは彼女の言いたい事が解らずに、首を傾げた。
六月は悠然と周囲を見渡す。
「この竹……どうして、倒れたのかしら?」
「は?」
一瞬、質問の意味が解らずに唖然とするが、黒騎士アレスは鼻を鳴らして肩を竦めた。
「いや、それは、剣で切れば倒れるに決まっているだろう……何を当たり前の事を……」
六月はゆっくりと首を横に振る。
「本当に、そうかしら?」
「どういう意味だ?」
黒騎士アレスの問いかけに答える事なく、六月は話を進める。
「さっき、廊下で貴方が梨沙さんに攻撃したとき……」
「リサとは、あのドワーフの少女の事か?」
この黒騎士アレスの言葉に、六月は呆れた様子で頭を振る。
「貴方には、そう見えるのね」
「だから、さっきから、何が言いたい!?」
やはり、六月は質問には答えない。
「兎も角、あのとき、貴方の剣は廊下の床に突き刺さったわ。移動中のキャラや振るった武器のポリゴンが、他のポリゴンにめり込むなんて、ゲームではよくある事だけど、貴方の剣は床に突き刺さった。おかしいと思わないかしら?」
「だっ、だから……」
確かにおかしい。込みあげる違和感に反駁の言葉が飲み込まれた。
そこへ、六月の容赦ない言葉が更に覆い被さる。
「AWOはRPGよ。接敵して頭上にターゲットマーカーの浮かんだモンスターか敵プレイヤーにしか攻撃はできないはず」
「な……」
確かにそうだ。おかしい。
「そう思い込んでいたから、貴方はオブジェクト破壊効果のあるスキルをわざわざ玄関扉に使ったのでしょう? あのエフェクトと扉板の壊れ方から見るに【グラビディフェンサー】よね?」
六月の指摘した通りだった。
これはAWOの世界なのだから、剣を振るっても攻撃対象以外のものを破壊できる訳がない。
ならば、この竹は何なのだ……なぜ、剣で切れるのだ……。
黒騎士アレスは、周囲を見渡して戦いた。
何かがおかしい。
そして、おかしいなどと言い出したら、最初から何もかもが、おかしかった。
『酔いどれ火竜亭』での仲間たちの態度。
ポーションの瓶に記された『大宮中央総合病院』の文字。
背後から迫る不気味な死神の影。
そもそも、ログインしなくなったプレイヤーキャラクターを連れ帰るクエストなどあり得る訳がないのだ。
面と向かって指摘され、足元からすべてが揺らぐような眩暈を覚える黒騎士アレス。
そんな彼に向かって、六月は言い放つ。
「ここはAWOの世界ではないの」
「何を……お前は……では、何だと言うのだっ! ここが異世界アムネジアでなかったとしら、何なんだよっ!」
六月が残酷な笑みを浮かべる。
「ここは、現実よ」
「げ、現実……」
黒騎士アレスは、その言葉に胸を穿たれ、たたらを踏んだ。
……自分は黒騎士アレスである。ならば、黒騎士アレスの存在するこの世界こそが現実ではないのか。
「ああ……六月……君は……君は……何を意味の解らない事を」
「黒騎士アレス、いいえ、桐場秋人さん」
視界が揺らぎ、ノイズが走った。
六月の姿が、まったく見知らぬ誰かと重なる。
「貴方は七年前の十二月二十六日に大宮駅前のみなしのビルディングで行われた『火吹き山連合』のオフ会で、『虎猫遊撃隊』の三人を殺害し、その現場であるカラオケルームに火を放った」
「違……違う……違う!」
「そのときから貴方はずっと病院のベッドの上にいるわ。それが現実なのよ」
「ああああ……五月蝿い……五月蝿い……五月蝿い……私は……僕は黒騎士アレスだ……」
「違うわ。貴方は桐場秋人よ」
「違うッ!! そんな奴は知らないッ!!」
大声を張りあげ、聞きたくない六月の台詞を遮る。
すると、そのときだった。
「循!」
背後から声が聞こえた。
黒騎士アレスは振り向く。すると、そこには、あのドワーフの少女が立っていた。
肩で大きく息を吐いており、右手に何かを持っている。
六月が叫んだ。
「梨沙さん! それをこちらに向かって掲げて!」
「こう?」
と、ドワーフの少女は右手に持った物を黒騎士アレスのいる方に向かって突き出した。
それは手鏡であった。
「鏡がいったい何だと……」
そこで、黒騎士アレスは言葉を失う。
鏡面に映されていたのは、漆黒の甲冑に身を包んだ黒騎士などではなかったからだ。
頭髪のない髑髏のような顔。
痩せ衰え卑屈で陰気な表情を浮かべている。
患者衣をまとったみすぼらしい男。
それは、勇敢な黒騎士アレスではない。
恐ろしい死神でもなかった。
それは、まぎれもない自分自身……。
「もう、ゲームは終わっているの。桐場秋人さん」
その六月の言葉ですべてを思い出す。
冒険者の集う酒場とは似ても似つかない、狭く薄暗い部屋。
ダンジョンで手にいれた数多の財宝などではなく、うず高く積まれたゴミ袋の山。
手元にあるのは勝利の美酒などではなく、ミネラルウォーターのペットボトル。
それが世界のすべてであった情けない自分自身の事を……。
「やっ……やめろぉおおおおっ!!」
黒騎士アレスは絶叫して目を見開き、上半身をはね起こした――
クリーム色のカーテンを貫いて暖かな陽射しが差していた。
白い壁と白い床。
天井も白い。
それは、AWOの世界のものではなく、特に代わり映えのしない現代日本のどこかの病室であった。
「いやだ……」
桐場は目を瞑り、目を開いた。
しかし、視界にあるのは真っ白な天井だった。
「やめて……」
もう一度、目を瞑り、目を開いた。
しかし、何も変わらなかった。
「いやだぁあああああッ!!」
まるで、駄々をこねる幼子のような絶叫が病室内に轟く。
扉が開き、彼の絶叫を耳にした看護士たちが慌てた様子で病室に雪崩れ込んでくる。
「桐場さん、落ち着いて!」
こうして、桐場秋人は七年振りに現実へと帰還したのだった。