【02】クエスト開始
当初の桐場秋人は二〇一三年十二月二十六日に開催されたオフ会には、いかないつもりだった。
いける訳がない。いくら思案しても、その結論に辿り着いた。
ギルド『火吹き山連合』所属『虎猫遊撃隊』の火力職、黒騎士アレスが三十過ぎの汚ならしい男などと、仲間たちに知られたら……。
ちゃんとした社会人などではなく、未だに実家の仕送りで生活を続ける引きこもりのニートだと露見したら……。
想像しただけで怖気が走り、叫び声をあげたくなった。
黒騎士アレスは黒髪で細身の中性的な少年だ。しかし、現実の桐場秋人は、不健康な醜いおっさんでしかない。
何ともおぞましい限りであるが、それは、自分自身だけの話ではなかった。
現実の仲間たちだって、ゲームの中とはまったく違う姿をしているに違いない。
赤毛で痩身、いつも飄々とした笑みを浮かべているb/head。
流れるような金髪と翠玉のような瞳、尖った耳が特徴的なカエデ。
屈強な身体と熊を思わせる立派な黒髭のセント・ジョージ。
そして、どこか病的で妖しい魅力のある銀髪の六月。
それが、もしも、自分のような化け物だったとしたら……。
そんなものは見たくなかった。
現実など糞食らえだった。
桐場にしてみれば、この世界など、パソコンのモニターの広さだけあれば充分なのだ。
だから彼にとって、毎月第三水曜日正午から十八時頃まで行われる定期メンテナンスの時間は、苦痛以外の何ものでもなかった。
この時間だけは、どうやっても黒騎士アレスではなく、桐場秋人にならざるを得ない。
自分自身が、自分である事に吐き気が止まらなくなる。
しかし、それでも、桐場秋人として、やらなければならない事を、この時間のうちにこなしておかなければならない。そうしなければ、ゲームの中で快適に過ごす事ができなくなるからだ。
通販で買ったレーションやミネラルウォーターなどの梱包をとき、もしも足りない物や必要な物があれば外に出る。銀行や役所などの用事もここで済ませ、時間があれば入浴もする……。
あの二〇一三年十一月二十日の定期メンテナンスも何一つ変わらなかった。
桐場はゲームの中で生きる為に、現実世界で準備を整え、これまで通り十八時を待っていた。
公式キャラクターのイラストと『只今、メンテナンス中』の文字が浮かぶ画面を暗い部屋でじっと眺めながら、桐場は考える。
どうせ、やる気のない運営の事だ。今回も細かいバグの修正だけで終わりだろう。だが、それでも構わなかった。
自分が黒騎士アレスとして、存在できる世界があればいい。それだけで満足だった。
現実の桐場秋人を忘れさせてくれるならば、黒騎士アレスでいさせてくれるなら、何であっても構わない。
この日もメンテナンス終了とほぼ同時に桐場はAWOの世界へとダイブした――
芳ばしい酒と料理の匂いが鼻先を擽った。
ドワーフたちの楽団の軽やかな曲に合わせ、獣人族の少女がジャグリングの巧みな技を見せる。
歓声や笑い声。
食器や杯の打ち合わさる音が夜の時間の旋律を刻む。
そこは城塞都市フールの『酔いどれ火竜亭』であった。
「ねえ、アレス。どうしたの? ぼーっとして……」
気がつくと、カエデが自分の顔を覗き込みながら、翠玉の双眸をぱちりと瞬かせていた。
「あっ、ご、ごめん」
慌てて取りつくろう黒騎士アレス。カエデは口元に右手を当てて、くすくすと笑う。
「なあに、もう酔ったの?」
「いや……ちょっと、寝落ちしてたかも」
そう言って、円卓を見渡す。
カエデの他には、b/head、セント・ジョージ……。
「六月は……?」
この質問に答えたのは、b/headであった。
「まだ来てない」
そう言って肩を竦め、木杯につがれたエールを一気に呷った。
「そうか。六月、最近、ぜんぜんインしなくなったな……」
あの十一月のメンテナンス前のガルガメル討伐を最後に、六月の姿を一度も見ていなかった。
しかし……。
「今日はインしているみたいだよ」
その言葉を放ったのはセント・ジョージであった。
彼はロブスターのような馬鹿でかい海老の背中を、ぼきり……と折った。
「フレンドリスト、見てごらんよ」
言われた通り、黒騎士アレスはフレンドリストを確認した。すると、確かに六月の名前の横にログインしている事を示すマーカーが点滅していた。
「本当だ……」
正直、かなり意外だった。もう六月は、このゲームに飽きてしまったのだろうと思い込んでいた。これまで、この世界を去っていった幾人もの同胞たちのように……。
何とも言えない気分でいると、カエデが悪戯っぽい微笑みを浮かべながら言った。
「気になるならDM送ってみたら?」
「あ、ああ……」
黒騎士アレスは、すぐに六月に向かってDMを送る。文面は以下の通り……。
『久し振り。今、どこにいるの?』
しかし、返事はない。
ソロ狩りか、イベントの最中だろうか……。
首を傾げていると、b/headがヘラヘラと笑う。
「たぶん、“フジミシ”だな」
「フジミシ?」
聞いた事のない言葉だった。
「ほら。この前のメンテナンスで実装されたマップだよ」
b/headの言葉を聞いても、まったくピンと来ない。
「この前のメンテナンスって、俺たちがガルガメルを討伐したあとの定期メンテ?」
「そうだよ」と、b/headが頷いた。
思い出せなかった。
目線を遠くに置いて記憶を探る。
確か、あの定期メンテナンスでは……やはり、思い出せない。
そこで、再びセント・ジョージが満面の笑顔で馬鹿でかい海老の背中を、ぼきり……とへし折る。
「アレスが迎えに行ってあげなよ」
「迎えに……行く……?」
黒騎士アレスは首を傾げる。
「だって、こうなったの、貴方のせいでしょ? アレス」
「え?」
彼には、そのカエデの言葉の意味が解らず聞き返した。
すると、彼女はグラスに入った赤ワインを飲んでから言い直す。
「新しいイベントって事よ。この前のメンテナンスで実装された……」
「新しいイベント……」
やはり、意味が解らずb/headとセント・ジョージの顔を見渡す。
「君が、六月をここまで連れてくるんだ」
「がんばれ。黒騎士アレス」
すると、目の前に『このクエストを受けますか?』のメッセージと『Yes/No』の選択肢が現れる。
黒騎士アレスは、迷った末にYesを選択した。
彼の冒険が今始まった――。