【11】急襲
すっかりと夜になり、鼻先も見えない暗闇の中で柊明日菜は、どうにか生き残ろうと足掻いていた。
まず、どうにか柱を中心に反対側へ移動し、後ろ手で畳に刺さったアーミーナイフの柄を握る。
それから、手首のロープを切断しにかかった。
何度か誤って手首や指を切ってしまうも、ナイフを落とさないように痛みを我慢する。
かなり時間をかけてしまったが、どうにか手首を繋いでいたロープを切断する事ができた。
次に彼女は、真っ暗闇を四つん這いになり、手探りで堤川の肩かけ鞄の中からペンライトを見つけ出す。
他にはスマホと飲みさしのミネラルウォーターのペットボトル、虫除けスプレーなどが入っていた。鞄ごともらっていく事にする。
ライトのスイッチを入れた途端、変わり果てた前沢と堤川の死体が光の中に浮かび、怖気と共に吐き気が込みあげてきたが何とか堪える。
そのまま、右手にアーミーナイフ、左手にペンライトを持って廃屋の玄関へと向かう。
途中の廊下で仰向けに倒れた森山を目にすると、柊はたまらず胃の中の物をすべて吐き出した。
一息吐くとミネラルウォーターを口にしながら、残った池田と野島の安否を思う。
きっと、もう生きてはいないだろう。そんな予感がした。そもそも、彼らの助力は当てにならない。
気を取り直し、玄関を目指す。事切れた森山の横を通り過ぎて、框から三和土へと降りた。
そして、開け放たれていた玄関戸の敷居を跨ごうとした瞬間だった。
棟門の向こう側に人影が現れる。
あの猿だ。
右手に斧を持ち、左手には何かをぶらさげている。
それは、池田俊と野島美姫の生首であった。
カチカチと歯の鳴る音が聞こえたと同時に、猿は池田の首を放り投げてきた。
柊は咄嗟に玄関戸を閉めた。
その直後に池田の首が戸にぶち当たる。けたたましい音が鳴り響き、格子の磨り硝子が割れ落ちた。
猿がやって来る。
柊は反射的に玄関戸のクレセント錠をおろしにかかった。幸いにも錠は錆びついていたが、まだ生きていた。
猿が右腕一本で消防斧を振りかぶり、弧月の刃を玄関戸に叩きつける。打撃音が鳴り響き、格子戸が震えて硝子がまた割れ落ちる。
「いやッ!」
柊は悲鳴をあげ、玄関に背を向けて駆け出す。元の和室へと戻った。
このままでは不味い。どこかに隠れなくてはならない。
ペンライトの乏しい明かりで周囲を照らすと、縁側の向こうの庭先にある堅牢な蔵が目に映った。明かりを当てると入り口の扉は開いていた。
考えている時間はなかった。
縁側から飛び出し、隈笹の藪を掻き分ける。
すると、扉を破壊するのを諦めた猿が、表から回り込んでくる。
藪の中の柊を見つけると、猿は野島の首を放り投げてきた。
その投擲をかわしながら、柊は蔵の入り口へと飛び込んだ。
野島の首は、近くの山毛欅の大木にぶち当たり、湿った音を立てた。
藪を割って駆けてくる猿。
柊が蔵の入り口の内側にある重い裏白戸を閉めた。素早く閂をかける。
柊は次に蔵の窓の方を見た。すると、鉄格子がはまっていたので、ほっと胸をなでおろす。そのまま、腰を落とした。
すると、がつんと音が鳴り響き、背をもたれていた裏白戸が振動した。
一応、裏白戸は防火用の戸であるため頑強に作られてはいる。しかし、猿の膂力は強い。
柊は不安にかられて立ちあがる。
何か使えるものはないか……。
蔵の中を見渡す。
古びた家具や農機具、肥料の入った袋、積みあげられた段ボール……。
すると、柊の目に二階へと登る階段が映り込む。
階段を一気に駆け登った。
そして、二階にあった、ありったけの家具や段ボールで階段口を塞ぎ始める。
そのバリケードが完成した頃、一階の入り口から聞こえていた激しい打撃音が止んだ。
裏白戸が破壊されたのか、破壊を諦めてくれたのか……現状では解りようのない事だったし、確かめようという気も起きず、柊は埃にまみれた床に寝転がり、大きく息を吐き出した。
八月二日八時五十五分――。
生首の検分を終えたあと、二人は磨り硝子の割れた格子戸の隙間からクレセント錠を解いて、廃屋の中へと侵入した。
先頭に立つのは、右手にスタンロッドを持った桜井。そして、胸元にデシタル一眼カメラを構えた茅野が後ろに続く。
そうして、まず二人が発見したのは、玄関から延びた廊下の先に横たわる森山竜夫の死体だった。
彼の首筋を中心に、赤黒く乾燥した血痕が広がっている。付近には床板に空いた穴と、誰かが吐き戻した痕跡があった。
「循、これは……」
「……この首の傷が致命傷だったのだと思うわ。たぶん、噛み傷ね」
茅野がカメラのLEDライトを当てながら傷口を覗き込む。
「やっぱ、猿かな?」
「恐らくは……」
「今回のスポットはかなりエキサイティングだね……」
「ええ、そうね」
と、頷き、平然と吐瀉物を観察する。
「……これは、バーベキューかしら?」
その言葉を聞いて、桜井が、はっとした顔をする。
「あの河原にあったテントの……!」
「間違いないわね。彼らも、この村を訪れていた」
「そして、帰れなくなったんだね?」
茅野は頷いて、死の気配が濃厚に漂う廊下の先を見据える。
「用心して行きましょう……」
「うん」
二人は更に奥へと進んだ。そして、あの和室へと辿り着く。
そこには、頭を砕かれた前沢英人と脳味噌をぶちまけた堤川治郎の死体があった。
「これは、酷いね……」
「玄関前にあった首も含めて四人……」
次の瞬間だった。
「逃げて!」
それは、縁側の向こうに生い茂る隈笹の藪の奥だった。堅牢な蔵の入り口の真上に位置する鉄格子の窓から誰かが顔を覗かせている。
「生存者がいるみたいね」
その茅野の言葉の直後だった。
がさがさと隈笹の葉がこすれる音が聞こえる。
すると、山毛欅の木の前方辺りの茂みから、不気味に笑う猿が顔を出した。
その刹那に放たれた投石が一直線に茅野へ目がけて飛来する。
「循ッ!!」
桜井の声が響き渡った。




