【03】メインヒロイン
砂利を踏み締めるタイヤの音が止んだ。黄緑のクロスビーが白いライトバンの横に停車する。
助手席の扉が開いて姿を表したのは、あらゆる意味で、この場に似つかわしくない女であった。
手足がすらりと長く、オフショルダーのブラウスにショートパンツがよく似合っていた。ライトブラウンの髪の毛を肩まで伸ばしている。
そして、大きく隆起した胸元には、小洒落たアクセサリーが揺れていた。足元は履き慣れた様子のコンバースだった。
女は車体の後部へ向かうと、開かれたトランクから自分の荷物をおろそうとした。
しかし、それを堤川治郎が止める。
「明日菜ちゃん、いいよ。ぼくが持つからさ」
その女――柊明日菜は困惑した様子で眉をひそめた。
「え、でも……」
「大丈夫だって。ぼくに任せて。ね?」
そう言って堤川は、柊のリュックを右手に持った。
「じゃあ……」
と、酒類の入ったエコバッグに手を伸ばそうとする柊であったが……。
「いいから、いいから。明日菜ちゃんは何もしなくて大丈夫だから!」
と、これも堤川が持つ事となった。
結果、彼は自分のリュックを背負い、右手に柊の荷物、左手にエコバッグを持つ事となった。
いったん、エコバッグを地面に置いてトランクを閉める堤川。
額に汗の浮かんだ顔で笑い、再びエコバッグを持ちあげる。
「それじゃあ、行こうか。みんな、我らがサークルのメインヒロインの到着を待っているよ? ……なんちゃって」
と、冗談めかして言い、河原まで続く坂道の方へと足早で向かう。
柊はそのあとに続きながら、うっそりとした顔で嘆息した。
だから、嫌なのだと……。
柊は今日を最後に、このサークルを脱退するつもりだった。
柊明日菜はアニメやゲームを好むオタクであった。
父親がその手のマニアで幼少の砌より、そうした作品を嗜んできた。
そして、彼女は共に語り合える同好の士が家族内にいた為、同じ趣味を持った友人を求めようとはしてこなかった。
しかし、高校を卒業して進学のために親元を離れると、やはり顔をつき合わせて語り合える仲間が欲しくなる。
そこで思い切って、オタクサークルに入会してみる事にした。
それが、前沢英人が代表を務める『こっぺりあ』であった。
このサークルの事を知ったのは、SNS上で視聴していたアニメについて検索していたとき、偶然にも前沢の呟きが目に入った事がきっかけだった。
それから、タイムラインでの前沢たち五人の楽しそうなやり取りを目にするうち、自分もその輪に加わりたくなった。
思い立ったら吉日と、すぐに前沢にコンタクトを取り入会を決めた。
こうして柊は、初めて同年代で同じ趣味を語れる仲間を得た訳だが、すぐにうんざりさせられた。
彼らが自分の事を特別扱いしてくるからだ。
言うことなす事、全肯定され、荷物持ちはもちろん、買い出しや送迎まで……彼らはすべての物事において柊の手を煩わせまいと立ち回った。
ちょっとした軽食や喫茶の代金から飲み代まで、彼らといるときにお金を払った記憶がない。
柊は単に趣味の話を気軽にしたかっただけで、特別扱いされて、ちやほやされたかった訳ではない。
最初のうちは、きっと、まだ自分がサークルに馴染んでおらず“お客様”のままだから気を使われているだけなのだろうと考えた。
堪らなくなって、遠回しにではあるが、特別扱いしないでくれと訴えた事もあった。
しかし、どうやっても、彼女は前沢たちの真の仲間になる事ができなかった。
やはり、こういう集まりは自分には向かない。
趣味は共有するものではなく、独りで楽しむもの。
柊明日菜は一年にも満たないサークル活動で、その事を深く実感させられた。
堤川、柊を加えた六人での一見すると和やかな時間は、瞬く間に過ぎ去っていった。
人気のない河原で、酒と肉を肴に話は弾む。
流行りのアニメ、混迷を極める世相、各SNS界隈での出来事、コミケなど各種イベントでの思い出話など……話題は多岐に及んだ。
大量に買い込んだ食材が酒類と共に次々と各人の胃袋へと収まってゆく。
相変わらず柊は何かにつけて特別扱いされてはいたが、それでも気分は悪くなかった。
コロナ禍により自粛を強いられた日々の中で、久々に解き放たれた気分を味わっていた。
そうして、ほどよい満腹感と酩酊感が、全身を包みだした頃だった。
どういう変遷を辿ったのかは判然としないが、話題はネット怪談へと移り変わっていた。
そこで池田が「実は拙者の実家がこの辺りでして……」という前置きを口にして、二〇一三年にオカルト板に投稿された『廃村の屋根の上に』について語り始める。
「……それで、拙者が小学生の頃に、その村の廃屋で、行方不明者の下顎が見つかるという事件がありまして」
不気味に、ひひひ……と笑う池田であった。
「え、じゃあ……」
青ざめた表情の野島の言葉に池田は得意気な顔で頷き、割り箸の尖端を渓流の対岸へと向けた。
「そうです。その話中に登場する廃村というのが、この荒井沢にかつて存在した馬頭村という訳であります」
「そ、その、屋根の上の人影って、けっきょく、何なんすかね……山の神様って……」
「さぁ」と、森山の言葉に肩を竦める池田。
「いや、俺は、そういうの信じないけど。その行方不明者だって、熊か何かの仕業だろ? どうせ」
堤川はちらりと柊の方へ目線を送り、強がってみせた。
「池田……」
「何でありますか? 前沢氏」
「その村って、ここから近いの?」
その前沢の問いに、池田はしばし考え込んでから口を開く。
「まあ、たぶん、一時間もかからないと思いますけど」
「なるほど……」
前沢は得心した様子で頷き、ビールを一気に呷った。
「それじゃあ、今から、その村に行ってみないか? みんなで」
「ええ……」と難色を示したのは、野島だった。
「いや、危ないよ。お酒飲んでるし……やめようよ、そういうの」
「ばっか。これくらい余裕だよ。なあ?」
前沢が男性陣の顔を見渡した。池田、森山、堤川が、彼の言葉に同意する。
「拙者、道知ってますんで、案内します」
「面白そうじゃないっすか」
「まあ、腹ごなしの散歩にはちょうどいいんじゃないの?」
しかし、野島はやはり乗り気になれないようで……。
「……私はいいや。ここで本読みながら待ってる。足、怪我してるし」
ここで前沢が柊に話の水を向けた。
「明日菜ちゃんは、どうする?」
柊は考える。
はっきり言って行きたくない。面倒臭い。しかし……。
野島の顔を横目で窺いながら思う。
ここで、彼女と二人きりで他のみんなの帰りを待つのは、もっとごめんだった。
表面的には取り繕っているが、野島は柊の事を嫌っており、それを当人もはっきりと自覚していた。
原因は前沢が、事あるごとに柊を甘やかそうとするのが気にくわないらしい。
どうも彼女の事を自分の恋人に色目を使う泥棒猫であると勘違いしているようだ。
とうぜんながら、柊自身にそんなつもりは毛先ほどもない。
ともあれ、迷った末に……。
「じゃあ、私も行こうかな」
と、柊は答えた。
「うおおお……姫もいらっしゃる!」
などと、テンションをあげる森山。
「これは守護らねば!」
と、堤川も声を張りあげた。
その横で野島が面白くなさそうな顔をしていた。
柊はげんなりとしたが、どうせ今日でこの人間関係も終わりだ……と、腹をくくる。
「……それじゃあ、なるべく暗くなる前に戻ってきてね?」
野島がぎこちない微笑みを浮かべながら、そう言った。
……このあと、前沢、池田、森山、堤川、柊の五名は、渓流の対岸へと渡るために下流の岩場を目指した。
八月一日十五時三十六分の事だった。