【14】そこには何もない
岡村進は古びた住宅街の路地を歩き、土手の斜面に横たわる石段を登る。
そのまま、川に架かった橋の方へと土手の上の砂利道を行く。
橋の向こうに見える空は赤く染まり、やがて訪れる夜の気配を漂わせていた。
この季節にしては例年よりも肌寒く、すれ違う人もいない。
そんな風景を数分歩くと、やがて二宮健太の遺体が発見された場所が見えてくる。
すると、そこには二人の人影が佇んでいた。
桜井梨沙と茅野循……数日前に十和子の作品をわざわざ届けてくれた少女たちだった。
岡村は土手を下り、彼女たちに近づく。
「君たちは、先日の……」
「呼び出しに応じたという事は、あの手紙の内容は事実であったという事でいいのかしら?」
茅野が唇の端を釣りあげる。一方の桜井は、ぼんやりとした眼差しで朱に染まった空を見あげていた。
「いや、何の事だ? あの手紙って、これの事か?」
くしゃくしゃに握り潰したルーズリーフをポケットから取りだし、進はそれを広げて見せた。
「ええ。そうです」と、茅野が頷く。すると、進は鼻を鳴らして笑う。
「僕が、あの二宮という少年を殺した? なぜ、そんな馬鹿げた出鱈目を……」
すると、茅野は矢のように言葉を放つ。
「きっと、貴方は娘さんに行ってきた仕打ちを彼に咎められて逆上した……もしかしたら二宮健太の方が、貴方を殺そうとしていたのかもしれませんね」
「お前……何を……」
進は口内で言葉をさ迷わせる。
なぜ、この少女はまるで一部始終を見ていたかのように語るのだろう。
すべて彼女の言う通りだった。
“自殺して亡くなった十和子さんについて大事な話がある”
そんな文言から始まる手紙がポストに投函されていたのは、七月二十五日の事であった。
訳が解らなかった。
なぜなら、彼の中では、娘の十和子はまだ生きているし、最初の十和子の死因も自殺ではない。
質の悪い悪戯と捨て置く訳にはいかなかった。
進は手紙に書かれていた時刻に、指定の場所へと向かった。
すると、そこで待っていた少年に意味の解らない事を言われ糾弾される。そして、その少年は唐突にブロック片を持ちあげて襲いかかってきた。
もみ合いとなり、気がついたときには……。
「あの少年が僕を殺そうとした? いったい、なぜ、そんな事になるんだ?」
精一杯、平静さを装う進。その言葉を茅野はあっさりと切り捨てる。
「仇討ちでしょうね」
「仇討ち……? 誰の? 誰が……」
「だから、死んだ十和子さんのだよ」
進の疑問に、これまでいっさい話を聞いていなかった様子の桜井が答えた。
そこで、口を開こうとした進の言葉を制するように、茅野が声をあげる。
「貴方は、十和子さんに物心つく前から洗脳に近い教育を行っていた。彼女を死んだ母親とまったく同じ人間に育てるために」
「違う……」
同じ人間にするために育てていたのではない。
十和子と十和子は同じ人間なのだ。
「そのために貴方は、産まれたばかりの娘に、死んだばかりの妻の名前をつけた。ただ日本の法律では、親の名前を子供につける事ができない。少なくとも同じ戸籍に入っている間は。だから、妻の死亡届が受理され、戸籍から外れるのを待って、娘の名前を記した出生届を役所に提出した」
「それで、岡村さんの誕生日は三日ずれていたんだね」
桜井が得心した様子で、両手を打ち合わせた。
茅野は頷き、話を続ける。
「その事を知った十和子さんは絶望した。貴方に愛されていたのではなく、母親の代わりとして扱われていたのだと気がついた。だから、彼女は死を選んだ」
「なっ、何を……何の事を言っているのだ……僕の十和子への愛は本物だ……」
だからこそ、生まれてきた娘が立派な十和子として甦る事ができるように育ててきたのだ。
進にとって、それは愛以外の何ものでもなかった。
そこで、桜井が場の雰囲気にそぐわない呑気な声音で言った。
「ゴッホさんも同じだったんだってね……」
フィンセント・ファン・ゴッホもまた、たった一年前に死産で生まれてきた兄と同じ名前をつけられたのだという。
ヨーロッパでは同じ一族に、同じ名前をつける事は特に珍しくはない。
しかし、これがのちに、ゴッホの精神を病ませた要因の一つとなったとも言われている。
「……それらの事情を知ったのが二宮健太だった。彼女と親しい彼ならば、あのホームページの事は彼女から聞かされていたでしょうし、西洋美術に詳しい彼ならば、日記のパスワードを解く事も容易だったはずよ」
「ホームページ? 日記? パスワード? ……お前らは、何を言っているんだ?」
進は首を傾げる。
すると、桜井が呆れ顔で彼を指差して言う。
「循、この人、あのホームページを見たことないみたい」
茅野は悲しげな表情で頷く。
「あのホームページは、十和子さんの唯一のパーソナルスペースだったのかもしれないわね。だから、きっと父親には秘密にしていた」
「お前ら……いったい、さっきから、何の話を……十和子が僕に隠し事など……」
進には訳が解らなかった。
そもそもな話、彼の認識では十和子はまだ死んでいなかった。
このときも、彼の目には見えていた。
それは、桜井と茅野の背後。
生い茂る薮の中に佇む十和子の姿が。あの鶯色と白のワンピースを着て、微笑んでいる。
「十和子はそこにいるじゃあないか……」
進が二人の背後を指差す。
桜井と茅野は後ろを振り向き、首を傾げて顔を見合わせる。そして、桜井がおもむろにネックストラップのスマホで背後の空間を撮影する。
すると、茅野は肩を竦めて言った。
「私たちには、何も見えませんが……」
「何も見えない……?」
その進の言葉に茅野は頷く。
「まあ、貴方の言っている事が本当でも、十和子さんは生きてはいないでしょうね」
「だから、十和子は生きている……」
進は顔を憤怒の色に染めながら、歯軋りをした。
しかし、茅野はどこ吹く風といった様子で言葉を紡ぐ。
「取り合えず、遅かれ早かれ、貴方の元には警察が訪れる事だと思います。日本の警察は、それほど馬鹿じゃない。きっと、今は貴方と被害者の繋がりに気がついていないだけ。恐らく被害者のスマホやパソコンなどの履歴から、十和子さんのホームページに辿り着くはず。そうなれば、私たちがどうこうするまでもなく、貴方の罪は簡単に露見するでしょうね。どうせ、ろくな隠蔽工作もしていないでしょうし」
「五月蝿い! 五月蝿いッ!」
進は唾を吐き散らしながら、腰に挟んでいたバールを右手で抜き放つ。
そのまま、二人へと襲いかかってきた。
「梨沙さん!」
「がってん!」
茅野が後ろにさがり、桜井が前に出る。
「うおおお……死ねえええ!」
進は高々と振りあげたバールを小柄な桜井梨沙の脳天に振りおろそうとした。
しかし、その瞬間だった。
大きく踏み込んだ右足の膝下辺りに激痛が走る。とても立っていられなくなり、進は飛びあがって尻餅を突いた。同時に右手のバールが地面に転がり落ちる。
桜井は不敵な笑みを浮かべて言った。
「カーフキック、実戦で使ってみたかったんだよね」
カーフキックとは、脹脛と膝の間を狙ったローキックである。
一見すると単なるローキックにしか見えないが、この脹脛と膝の間は筋肉が少なく鍛える事も難しい。
ゆえに、しっかりとガードをしないと、たった一発でも歩行困難に陥るほどのダメージを負ってしまう。
「流石は梨沙さん、格闘技界の流行は押さえているわね」
などと、茅野が感心する間に、桜井は腰を落とした岡村進の背後に素早く回り込んで、必殺の裸絞めで彼の事を落としていた。
「カーフは使える」
桜井は確信に満ちた表情で、そう言った。
このあと、茅野は「自殺した同級生について、その父親と話していたらバールを振りあげて襲いかかってきた」と、警察に通報した。そこから二宮の事件についても示唆するつもりだった。
諸々の事情を説明するのが面倒であったし、彼女の予測通り、このままにしていても警察は彼に行きつくであろう事は明白だった。
しかし、彼の狂暴性を鑑みるに、このまま放置した場合、再び不幸な犠牲者が出ないとも限らないと判断したのだ。
そして、桜井は警察を待つ間、さっき撮影した写真を九尾の元に送った――
都内某所の占いショップ『Hexenladen』にて。
怪しげな品々の並ぶ店内奥のカウンターで、今日も今日とて、ぼんやりと頬杖をつく九尾天全であった。
どうせ客なんかこないし、今日はもう店を閉めようか。宅配サービスで焼き鳥でも頼んで、きゅうっと一杯……などと、考え始めた矢先であった。
カウンター裏で充電器に繋いだままだったスマホがメッセージの着信を告げた。
手に取って見ると、送り主は桜井梨沙。
どこかの川原の画像だった。珍しく本文が添えられている。
『何かいる?』
その端的な質問に九尾はくすりと微笑み、返信を打ち込む。
『特に何もいないけど』