【04】エンカウント
この五十嵐脳病院は空から見おろすと“日”の漢字を横に倒したような形をしていた。
二階建てで、階段は玄関ホールと裏口の近くにある。
二階は、ほとんどが病室になっており、全部で二十部屋ほどあった。
本来ならば裏手にもうひとつ病棟があったのだが現在は倒壊し、完全に草木の中に埋没している。
桜井と茅野はぐるりと病院内を見て回ると再び玄関ホールへと戻ってきた。その表情はご満悦といった様子である。
「たっぷり堪能したね」
「私は今まで、廃墟マニアってどうかしてると思っていたけど、とんだ勘違いだったわ」
「そうだね。廃墟マニアの皆さんにごめんなさいしないとだね」
と、桜井が茅野より一歩先に玄関の外に出た。その瞬間だった。
入り口の脇から飛び出してきた影が彼女たちの行く手を塞いだ。
「遅いから迎えにきちゃった」
そう言って、桜井の右手首を掴んだのは猿川であった。目を弓なりに細めて嫌らしい舌舐めずりをした。
そして、彼の背後には……。
「オイ、猿川、そのロリはオレんだからな?」
生理的嫌悪感をもよおす笑みを浮かべる牛野。
「よお。お嬢さん方。これから帰るならおれの車で送ってやるけど?」
そう言って、マルボロに火を灯したのは犬飼であった。
茅野はデジタル一眼カメラを構えたまま、険しい表情でじりじりと後退りする。
「……結構です。お構い無く」
犬飼が鼻と口から白煙を噴射する。
「でも、お前のお友達は、おれの車に乗るってよ?」
「嫌だ。離して!」
桜井が叫んだ。すると、犬飼は口元を嗜虐的に歪めて言った。
「まあ、おれの車に乗せる代わりにおれらもこのコに乗せてもらうがな」
猿川と牛野が、その下品でくだらないジョークに声を立てて笑う。
「犬飼クン、カンベンしてよ。あれ一応、俺の車だから」
猿川が飽きれ顔で肩をすくめた。そして桜井の右手を強引に引っ張る。
「オラッ! こいよッ! メスガキが。ファミレスじゃあ恥かかせやがって!!」
「痛いッ!」
桜井の右腕が、ぐっと伸びる。
そして牛野が、
「オイ、だから、そのロリはオレんだからな? あんま、雑に扱うなよ?」
と、言い終わる前だった。
「放せって言ってるでしょッ!」
桜井がくるりと掴まれたままの右手首を返し、手の甲を上に向けた。
そのまま猿川の方に右足で踏み込みながら、肘を外側へ張り出すように曲げる。
すると、あっさりと掴まれていた右手首がすり抜ける。
「ありゃ……?」
猿川の目が点になる。肘を支点にテコの原理で手首の拘束をほどく、初歩的な護身術だった。
猿川が呆気に取られるうちに、桜井は彼の胸元を捻りあげ、右手首を取り返した。彼女の小さな身体がくるりと翻る。
刹那、猿川は宙を舞い地面に背中から落下する。
「ぐぇ……」
蛙のような呻き声をあげる猿川。
「普通にしねっ!」
その顔面を容赦なく踏みつける桜井。猿川は意識を失った。
「テメェ……」
犬飼がマルボロを指先で弾いて捨てた。ポケットの中から取り出したバタフライナイフをくるりと右手の指先で回転させる。
「こんだけやってくれたんだ。一ヶ所ぐれぇ、エグっても構わねーって事だよなぁッ!!」
鋭利な刃が煌めく。
しかし、次の瞬間だった。桜井の背中越しに茅野が叫ぶ。
「梨沙さん!」
その声と共に青白い閃光が瞬く。
茅野がデジタル一眼カメラのフラッシュを焚いたのだ。
眩しさに犬飼と牛野が一瞬だけ怯む。背を向けていた桜井は平気だった。
素早く犬飼との間合いを詰める。彼の右手首を外側に捻りあげる。
「痛てぇ!」
バタフライナイフが足元へ落下した。
同時に桜井は出足払で犬飼を引き倒す。地面に転がった彼の鳩尾に爪先を蹴り入れた。
「お、オェ……うっ」
悶絶しながらのたうち回り嘔吐する犬飼。吐瀉物がひっかからないように、ぴょんと飛び退いて牛野と向き合う。
「クソっ!」
牛野は忌々しい表情で吐き捨てる。明らかに彼は臆していた。一歩、二歩と後退りする。
そこで、気絶した猿川の元で屈んでいた茅野が声をあげる。
「梨沙さん、これを!」
何かを放り投げた。
桜井は、それを右手でキャッチする。
それは猿川のジーンズのポケットに入っていた車のキーだった。桜井は茅野の意図を悟り、にやけた。
牛野の表情が青ざめる。
桜井は車のキーを玄関脇の藪の方へと全力投球した。
「そぉーいっ!」
「あああああッ!! てめぇええッ!!」
「逃げるわよッ!」
茅野が転がったままの猿川の身体を飛び越え、四つん這いの犬飼の脇を通り抜ける。
桜井もそのあとに続いた。
牛野は鍵が投げ捨てられた藪と、去り行くふたりの女子高生の背中を見渡しながら苛立たしげに舌打ちをする。
そして、彼は未だに地面に転がったままの仲間たちに目線を移し、ひとりで追いかけても勝てないと判断したようだ。
仕方なしに、投げ捨てられた鍵を探しに藪の方へと向かった。
桜井と茅野は、駐車場まで駆け戻ってきた。相変わらず黒のハイエースと二台の自転車しかない。
「あれがあいつらの車だね? おっと……」
突然、桜井がよろけて、ぺたりと砂利の上に座り込んだ。
茅野が心配そうに桜井の顔を覗き込む。
「大丈夫? 梨沙さん」
桜井は右膝を擦りながら苦笑いする。
「うん……でも、ちょっと動き過ぎちゃったかも」
今でこそオカルト研究会の部長に身をやつす桜井であったが、中学時代までは柔道に打ち込み、その道で将来を嘱望されていた。
右膝の怪我を切っかけに引退したのだが、その傷は未だに完治していない。
「どうやら、あいつら、まだこないみたいだし、ほんのちょっと休んでなさい」
そう言って、茅野はスクールバッグの中からミントガムとドライバーセットを取り出す。
ガムをクチャクチャと噛みながら、プラスドライバーを握り締める。
それから、駐車場の隅の藪から猫の頭ぐらいはありそうな石を拾ってきて、黒いハイエースに近付いてゆく。
「何をするの?」
桜井が首を傾げると、茅野は魔王のような微笑を浮かべる。
「まあ、見てなさい……」
そう言って、プラスドライバーの尖端を運転席側のサイドウインドに当てて、拾った石をゴツンとドライバーの尻に打ち付けた。
すると、あっさりと硝子は粉々に砕け落ちる。けたたましい防犯ブザーの音が鳴り響いた。
「あははっ、やるぅー」
桜井が手を叩いて爆笑した。
「車のサイドガラスは集中荷重に弱いの。案外、簡単に割れるわ。力のない私でもね」
茅野は割れたガラスの隙間から腕を突っ込み解錠するとドアを開けた。
すると、噛んでいたガムを吐き出して車のエンジンキーにぐりぐりとねじり込む。更にドライブレコーダーを手早く外すと鞄の中に入れた。
「これで、足止めは完璧ね。梨沙さん、行けそう?」
桜井が顔をしかめながら「どっこいしょ」と、立ちあがる。
「帰りは降り坂で楽だし、何とかなるよ」
「そう。なら、そろそろ帰りましょ」
「うん」
こうして、ふたりは自転車に股がり帰路に着いたのだった。