【14】気配
「ええ……湖が鏡?」
桜井は目を白黒させる。
そのリアクションに、茅野は満足げな様子で頷いて語り始めた。
「大昔、光を反射する水面は鏡の代わりだったというわ。恐らくは“禁后”の儀式も初めのうちは、水鏡とあの三つの壺を用いて行われる儀式だった。だけれど、時代が進むうちに、儀式は水鏡と三つの壺ではなく、入れ物と鏡が一緒になった鏡台で行われるようになったのよ」
「あー……まあ、そっちの方が面倒じゃないよね。家の中でもできるし」
と、言って桜井は、ついさっき自分たちが這い出てきた洞穴の入り口に目線を送る。
「でも……じゃあ、あの地下室にあった壺って、超古代のやつなの? 鏡台が誕生する前だから、室町時代だっけ? ……それ以前の」
「そうね。もしもそうなら、あの壺の考古学的な価値は、計り知れないものがあるだろうけど何とも言えないわ。もしかすると、そこまで古い物ではないのかもしれない。……でも、ただ一つ確実に言えるのは、ここで行われていた儀式は、鏡台が用いられる以前のもっとも原初に近い形なのでしょうね」
「ふうん」
と、桜井がいつもの興味なさげな相づちを打った瞬間だった。
唐突に二人のスマホが鳴った。
メッセージアプリの着信を告げる音だった。
「ん?」
「あら。誰かしら?」
桜井と茅野は、それぞれ送られてきたメッセージを確認する。
『鏡を見つけたようだ』
送り主は九尾天全の偽物であった。
「どこかから見てるのかな?」
桜井がきょろきょろと周囲を見渡すが、人気はまったくない。
続けてメッセージが送られてくる。
『彼の無事は保証しよう』
その言葉で二人はきょとんとした表情で顔を見合わせたのち、同時に声をあげた。
「ああ……菅野くんの事か」
「そういえば、そうだったわね」
どうやら、この場所へ来訪した目的をすっかりと忘れていたらしい。
梟が、ほう、ほう、と鳴いた。
「……まあ、それはいいとして」
茅野は誤魔化すようにそう言って、メッセージを打ち込む。
『いくつか聞きたい事があるのだけれど』
すぐに、例のゆるキャラがサムズアップしているスタンプが帰ってくる。
『じゃあ、遠慮なく』
と、茅野は断りを入れて、もっとも気になっていた質問を打ち込んだ。
『なぜ、私たちに鏡探しをさせたのかしら?』
少し逡巡した様子の間を置いて長文の返事が届く。
『……鏡がその湖の周辺にある事は解っていた。しかし、その湖の周囲には一族の者たちの行ったあらゆる呪いの残滓が渦巻いており、その力が邪魔をして、具体的な場所を特定する事ができなかった。そのために力を持たない普通の人間に鏡を探索させた方がよいと判断した。更に我々のような者は、力を持つがゆえ先入観に囚われてしまう事が多々ある。事実、わたしは湖が鏡であるなどと欠片も思いつきもしなかった。呪術の歴史、鏡の歴史を鑑みれば、自明の事であったにも関わらずだ』
茅野は眉をひそめ、メッセージを打ち込む。
『答えになっていないわね。もう一度だけ聞くわ。なぜ、私たちなのかしら?』
少し遅れたレスポンスで、今度は短い答えが返ってくる。
『わたしが君たちの能力を高く買っているからだ』
桜井と茅野は無言で顔を合わせる。
続いて偽物の九尾からメッセージが送られてきた。
『これで、君たちとは貸し借りなしという事で構わない』
「循、もしかして、こいつ……」
その桜井の言葉に、茅野は無言で頷き返し……。
『あなたとは、どこかで会った事があったかしら?』
すると、例のゆるキャラが、口をバッテンにしているスタンプが送られてくる。
「答えるつもりはない……という事かしら?」
茅野は諦めて次の質問をした。
『……じゃあ、なぜ、あなたは“禁后”の鏡を手に入れたかったのかしら?』
『仕事が駄目になった』
『コロナで?』
と、桜井がメッセージを打ち込んだ。
すると、再びゆるキャラが口をバッテンにしているスタンプが送られてくる。
『時間ができたので親戚たちの顔を見に行く事にした。そのために鏡は必要となる。鏡は入り口。向こう側へと続く扉』
すぐさま茅野が質問を返した。
『その親戚というのは、“禁后”の話の中にあった“誰も到達できない場所”へと到った者たちの事なのかしら?』
再びゆるキャラが口をバッテンにしているスタンプ。続けてメッセージが送られてくる。
『本当は、もう少しだけ大人しくしているつもりであったが、もっとも警戒しなければならない相手が遠く離れた北の地に行っている間に行動を起こす事にした』
『北の地って知床? ウニ食いたい』
と、桜井がメッセージを送ると……。
『それでは、九尾さんによろしく』
そして、例のゆるキャラが『バイバイ』と手を振っているスタンプが送られてくる。
「もう終わりかしら?」と、茅野が呟いた直後であった。
きっ、と眉を釣りあげた桜井が素早く屈んだ。そして、足元にあった尖った小石を拾いあげた。
「くせ者!」
と、鋭い声をあげて背後の茂みへと一石を投じる。
がさがさがさ……と、草木の葉がざわめく音がして、そのあとに静寂が訪れる。
再び梟が、ほう……ほう……と鳴いた。
「藪から棒に、どうしたのよ?」
茅野が突っ込む。
すると、桜井は、恥ずかしげにはにかみながら答える。
「いやあ、敵の気配を感じたと思ったんだけどさあ……」
「敵の気配て、そんな漫画やアニメじゃないんだから……」
と、呆れ顔で肩を竦めた茅野であったが、すぐに鹿爪らしい表情になる。
「でも、梨沙さんが言うならば、一概に冗談だと流せないところがあるわね……」
「いやあ、でも勘違いだったみたい。あたしもまだまだ修行が足りないよ」
そう言って、頭をかいて照れ笑いをする桜井。
「取り合えず、帰りましょう。疲れたし、お腹も減ったわ。もういい時間だし」
茅野がスイス製のミリタリーウォッチの文字盤に目線を落として言った。
彼女の言葉に桜井は同意する。
「そだね。帰ろっか。簡単なものなら何か作るけど……」
などと、夕御飯の相談をしながら、その場を遠ざかる。
……その二人の姿を茂みの奥の暗がりから眺めるのは、ノースリーブの白いワンピースを着た金髪碧眼の少女であった。
少女の頬についた擦り傷から赤い鮮血が滲み滴る。
どこかの梢で、何事もなかったように梟が鳴いた。