【07】病室にて
大正十五年――。
本郷七重のピストル自殺から半月が経った。
警察の現場検証の結果、彼女の姉である佐藤六美の喉元を鋏で刺したのは、次女の竹子であると判明した。鴨居で首を吊っていた山袴姿の少女である。
因みに鏡台の前で倒れていた禿頭の少女は三女の梅子で、死因は鳥兜の成分による中毒死であった。
鏡台から少し離れた畳の上に、空のお碗が転がっており、そこから毒素が検出されたのだという。こちらは自殺か他殺かは判然としていない。
そして例の鏡台は、警察が諸々の調査を終えたあとで、九尾天全が処分しようとしたところ、あまりにも込められた呪いの量が膨大過ぎて断念せざるをえなかった。
話によれば警察関係者たちは九尾の忠告を聞き、三番目の引き出しを開けようとしなかったばかりか、誰もが恐れて鏡台に触れる事すらしなかったのだという。
しかし、それでも健康を害した者や、奇妙な幻を見た者があとを絶たなかったらしい。
あの鏡台は儀式の失敗を経て、そこに存在しているだけで周囲に影響を及ぼす強力な呪物と化してしまったようだった。
それゆえに、あの家から別の場所へ動かす事もできず、九尾は本来の調査に加え、こちらの対応策でも頭を悩ませる事となった。
そんな最中だった。
あの夜の生き残りであり、入院中だった佐藤松子の状態が回復したとの一報が、九尾たちの元へと届けられた。
儀式が失敗した原因を究明すれば、あの鏡台の呪いをどうにかできるかもしれない。
そう考えた九尾は助手の岡田を引き連れ、その日の朝、宿から福井市の外れにある古びた病院へと向かった。
窓の外では大きな楡の木がざわめいていた。
九尾天全と岡田冬麻は看護婦に連れられ、佐藤松子が入院しているという病室へと案内される。
部屋に入ると、窓際のベッドで上半身を起こしていた少女が読んでいた本をぱたりと閉じた。
看護婦が「何かあったら、そちらのベルを鳴らしてください」と、ベッド脇の用箪笥の上に乗せられたハンドベルを指した。
そのあと、一礼して病室をあとにする。
それを見計らい、ベッド脇の丸椅子に腰をおろした九尾天全が口を開く。
「随分と顔色がよさそうだね」
「ええ……お陰様で」
そう答えた彼女の黒髪はあの夜のように三つ編ではなく、頭のうしろで無造作に束ねられていた。
「……七重叔母様……死んだのですってね」
「ああ……わたしたちの目の前でね。止められなかった。すまない」
九尾が慚愧の念を滲ませた表情で頭をさげた。
そこで岡田の視線が、彼女の読んでいた本の表紙をとらえる。
先月、発刊された谷崎潤一郎の『痴人の愛』であった。
「ところで随分と過激な本を読んでいるんだね」
その岡田の言葉に彼女はくすりと微笑む。
「……この本を読んだ事がおありなんですか?」
岡田は首を横に振る。
「……でも、内容が過激過ぎて新聞で連載中止になったのは有名で知っているよ」
そこで九尾が話に割って入った。
「違うな岡田。過激なのではなく革新的なのだよ。これがモダニズムというやつだ。ここに描かれているのは、新しい時代の価値観だよ」
「お嬢も読んだ事がおありで?」
この質問に九尾は即答する。
「まったく」
呆れ顔で苦笑する岡田。
「じゃあ、なんでそんな、知ったような事を……」
そんな二人のやり取りを目にした佐藤は、口元に手を当てて、ころころと笑う。
そして、ひとしきり笑うと暗い表情でうつむいた。
その物憂げな様子に、九尾と岡田の二人は何とも言えない表情で顔を見合わせる。
「あの夜、いったい、あの家では何があったのだ? なぜ、儀式は失敗してしまったのだろうか?」
ここぞとばかりに、九尾が本題を切り出した。
すると佐藤は両手で顔を覆い、さめざめと泣き始める。
ぽたり……ぽたり……と、彼女の膝の上に乗せられていた『痴人の愛』の表紙に透明な雫がこぼれ落ちる。
しばらくその状態が続き、彼女が落ち着くのに四半刻もの時間を有した。
佐藤は顔をあげて涙をぬぐう。それから、本の表紙を病人着の浴衣の袖でふいたあと、おもむろに呟く。
「新しい時代の価値観……それがもたらすものは、よいものばかりだとは限らないのかもしれません」
「……というと?」
九尾がうながすと、佐藤は意を決した様子で語り始めた。
「儀式が失敗したのは、私のせいなのです……」
佐藤によると“巫女”に選ばれた者は、幼少期より俗世と交わる事なく厳しい呪術の修行をしなくてはならないらしい。
「……私たち“巫女”に選ばれなかった姉妹は、儀式が終わったあとで俗世の常識を知らない“巫女”への教育と、お世話の役目があります」
「それで、貴女は実家に戻っていたのですね?」と九尾。
佐藤はその言葉に首肯を返す。
「……それで、七重叔母様も私と同じく“巫女”に選ばれなかった女でした。彼女は一族がこれからの新しい時代を生き残るために、“巫女”に選ばれなかった女は、高い教育を受ける必要があると提案し、私を学校へ通わせてくれたのです」
因みに次女の竹子は、家長である母親の意向で、家事などの雑務を引き受けるために、家を出る事は許されなかったのだそうだ。
「……しかし、それが破滅の始まりでした」
佐藤は暗い表情で再び『痴人の愛』の表紙へと目線を落とした。