【05】湖畔の家
二〇二〇年七月八日――。
「あの家に行ってから、何もかもがおかしいんだ……」
菅野亮は脅えた表情で事の経緯を語り始めた。
「切っかけは日曜日の朝から、いつもつるんでいた河合が免許取ったんで、二人で出かけたんだ。 海岸沿いの国道を通って県北の榛鶴の方まで」
榛鶴市は、あの発狂の家が所在する海沿いの町である。
「その河合さんというのは、貴方の同級生なのかしら?」
茅野が質問すると、なぜか菅野は困り顔で笑う。
「か、河合は、クラスメイトで中学生からの腐れ縁だったんだ……」
“だった”という言葉に反応し、桜井と茅野は神妙な表情で顔を見合わせる。
しかし、特に突っ込みは入れようとせずに菅野の話を黙って聞く事にしたようだ。
「天気はあんまりよくなかったけど、砂浜には、そこそこ人がいたよ。流石に例年ほどじゃなかったけど」
「まあ、こんなご時世だしね」と肩をすくめる桜井。
「それで、貴方たちは海岸でナンパでもしていたのかしら?」
この茅野の質問に菅野は苦笑して首を横に振る。
「いや。単なる……まあ、そのドライブだよ。少なくとも俺は、そのつもりだったんだけど……」
なぜか妙に歯切れが悪い。
「そのつもり?」
桜井が怪訝そうに眉をひそめて聞き返すと、菅野は「い、いや……」と言って咳払いを一つ。それから、腰の折れた話を元に戻した。
「……それで、昼になって、どこかで飯を食おうって話になって、国道沿いのファミレスに入ったんだ。そうしたら、河合と同じくいつもつるんでいた熊谷から連絡があって。それで、あいつも免許を取ってて彼女と一緒に榛鶴の方へきてるっていうから合流する事にしたんだ」
そこで茅野が「その彼女さんの名前は?」と質問を発した。
すると、菅野は思案顔で記憶を辿り、しばらくしてからその名前を口にした。
「……確か……なお……ナオミとか言ってた気がするけれど……」
「ナオミ……ね」
茅野が鼻を鳴らす。
それを気にした菅野は彼女に問う。
「……ん? どうしたの? もしかして、ナオミの事を知ってるの?」
「いいえ。話の続きをどうぞ」
「ん、ああ……えっと、どこまで話したっけ?」
その疑問には桜井が答える。
「ファミレスで熊谷っていう人から連絡があったんでしょ? それで?」
「……それで、四人でどこかへ行こうって話になったんだけど」
そこで菅野は話を中断して、再び記憶を辿る。
「ええっと、確か……最初に言い出したのは、ナオミだったと思う。“禁后”って知ってる”って……」
「“禁后”って、知ってる?」
周囲から聞こえてくる密やかな話し声と食器の立てる音を割って、彼女の声はやたらとよく耳についたように菅野は記憶していた。
「何それ……」
聞き覚えのない言葉だったので、とりあえず問い返す。すると河合が、かちゃかちゃと、やたら耳障りな音を立てながらペペロンチーノをフォークに巻きつけながら笑う。
「知ってるよ。ネットで読んだ事がある」
「俺も」と熊谷。ミートドリアにフォークをぶっ刺す。
菅野は三人の顔を見渡して訊く。
「何それ……」
「実話系の怪談だよ」
河合がペペロンチーノを咀嚼しながら答えた。
「本当にあった話さ」
熊谷が念を押すように言った。
「兎に角、一言で言い表せない話なんだけど……」
ナオミが“禁后”のあらすじについて、かいつまんで語る。
禁忌を破った子供たちの末路。
鏡台と鬘の事。
恐るべき儀式を執り行ってきた一族の事など……。
そうして、すべて聞き終えた菅野は、よく解らない話だと感じた。
怖いといえば、確かに怖い。
しかし、それが到底“実話”であるとは思えなかった。
「……その儀式の行われていた廃屋が、この近くにあるらしいんだけど」
ナオミが悪戯っぽい微笑みを浮かべる。
何でもその家は、ここから十キロほどの山中の湖の畔にあるのだという。
おいおい、いい歳して肝試しかよ……と、菅野が口にしようとしたところで、まるで、それを制するように河合が賛同の声をあげる。
「いいね。行こうよ」
「廃屋なら、コロナ感染、気にしなくていいしな」
熊谷がゲラゲラと笑う。
曰くつきの廃屋になど、正直なところ行きたくなかった。怖いというよりも面倒臭い。汚ならしい廃墟などに好んで足を運ぶ者の気持ちが解らなかった。
しかし、河合と熊谷にびびっていると思われたくもなかった菅野は、乗り気である振りをする。
「じゃあ、とっとと食って、店を出るか……」
そう言って、マルゲリータピザの最後の一枚を皿から取った――
「……って、感じで四人で、その湖畔にある家に行ったはずなんだけど」
「はず……?」
桜井が耳ざとく言葉の端をとらえて聞き返した。
「ああ……ああ……」
菅野は両手で顔を覆い隠し、うつむく。
「どしたの?」
桜井は心配そうに彼の顔を覗き込む。
すると、菅野はうわずった声をあげた。
「……家は普通の廃墟だったよ。ゴミとか硝子が散らばってて、ぼろぼろで……鏡台は……それらしいのはけっきょくなかった。幽霊も出なかった」
「じゃあ、何が問題だったのかしら?」
茅野の問いに菅野は悲鳴のような声で答える。
「いないんだよ」
「いない……?」
桜井がその言葉を繰り返す。すると菅野はしきりに頷きながらまくし立てる。
「ああ……ああ。あの家から帰ったあと、河合と熊谷……それから、あのナオミって女とも連絡がつかない」
「連絡がつかない……行方不明という事かしら?」
ずっと黙っていた茅野が問うた。
「違う、違う!」
菅野は激しく首を横に動かす。
「いないんだよ。河合も、熊谷……そのナオミっていう女も……」
「いない? いないって、だから、どういう……」
桜井が目を白黒させた。
菅野は声を張りあげ、彼女の質問に答える。
「スマホのアドレスも、写真も、みんな消えてるんだ。他の友だちに聞いても、そんなやつら知らないって……まるで、最初からいなかったみたいに、河合も熊谷もいないんだ。仲がよかったはずのあいつらの顔が思い出せない……下の名前も。本当にあの二人はいないのか……間違っているのは俺なのか……じゃあ俺はあの日、誰と一緒にいたんだ?」
菅野は絞り出すような声で言う。
「もう頭がおかしくなりそうだよ……」
桜井と茅野は、何とも言えない表情で顔を見合わせた。