【03】かみあがり
大正十五年――。
少女の啜り泣く声が響き渡る。
畳の上に置かれた洋灯の明かりが、その暗闇を照らしていた。
九尾天全は引き出しの中に入れられていた爪を一つずつ持ちあげて鼻先に近づけ観察する。
「九枚。全部、手の爪だ。子供の爪だな。人差し指、中指、薬指のいずれかの爪が一枚ない……」
鏡台の前で床に転がる少女の右手を取る。
すると、その人差し指の第一関節から先が欠けていた。どうやら、怪我や病気などではなく生来からであるらしい。
「この子の爪か……」
そこで岡田が、震え泣きじゃくる三つ編みの女学生の肩を抱いたまま、九尾に質問を発した。
「……お嬢。これはいったい、何を目的とした儀式なのですか……?」
そう言って岡田は、鏡台に目線を移す。
九尾ほどではないにしろ彼岸を見通す力を持った彼にとって、それはあまりにも禍々しい気配を放って見えた。
「“かみあがり”だ」
「かみあがり……?」
岡田には耳馴染みのない言葉であった。
「もっとも、“かみあがり”というのは、後世につけられた名前で、本来は外法、魔法、邪術、妖術……これを直接表す名詞はなかった。なにせ遠い昔、完全に歴史から葬られた上に、元々ありとあらゆる体系に属す事のない異端の中の異端なのだからな」
「何なんですか……その術は……」
「己の魂を魔道に近づけ、この世の外側にある空間を目指すための儀式だ」
「はい?」
岡田は両目を瞬かせた。
「簡単に言えば、彼女たちにとっての楽園を目指すための術だよ。その楽園はこの世には存在しない」
「天国とか、極楽浄土とか、そういうものですか?」
九尾は首を横に振る。
「その楽園はあまりにも異端で異質で異常な世界……我々の価値観ではおしはかる事のできない別世界という他はない。これらの儀式は、その世界からもたらされた知識だ」
「何なんですか……それは……」
そんな世界へと行って、何になるというのだろうか。
岡田はまったく理解できなかった。
「その場所に到達した者は、穢れのない存在として永遠に在り続ける事ができるのだという。それこそが、かの一族の者たちの目指す大願となる」
九尾はそう言って、二番目の引き出しを開ける。
中から人間の歯を摘まみ出す。
「“かみあがり”の具体的な手順は、わたしも知らないのだが、この鏡はいわば扉だ。その世界へと向かうための。そして……」
そう言って、再び歯を引き出しの中に投げ入れると、一枚の紙を取り出す。
そこには、一番目の引き出しに入っていた紙と同じく“噤诟”と記されていた。
それを岡田の方へと向ける。
「これだ」
「……きん……こう……ですか?」
岡田は、その文字を読みあげる。
すると、九尾が再び首を横に振る。
「恐らく、そうは読まない。この漢字にはまったく関係のない読み方が当てられる」
「……で、その言葉は何なんですか?」
この岡田の質問に九尾は畳の上に転がった少女へと目線をやって答える。
「真の名前だ。この子の。普段使う名前とは別の忌み名のようなものだな」
「名前……ですか……」
「うむ」と頷く九尾。立ちあがり、襦袢姿の女を見おろす。
「読み方は、恐らくこの女……少女の母親以外、誰も知らない。そして、それが彼女たちにとっての楽園にいたる合言葉となるのだ」
そこで、溜め息を一つ。
室内の惨状を再び見渡し、九尾は岡田に向かって言う。
「……そろそろ、ここを出よう。あまり長居をしていい場所ではない。取り合えず警察に……」
「はっ」と岡田は返事をし、未だに泣きじゃくる三編みの少女と共に立ちあがる。
「大丈夫かい?」
少女に優しく語りかけるが、やはり返事はない。
岡田は少女の肩を抱いたまま、九尾と共にその家をあとにした。
外に出て九尾が玄関の扉を閉めたあと、岡田はふと疑問に思った事を訊いた。
「そう言えば、お嬢」
「何だ?」
「あの鏡台の三番目の引き出しには、何が入っていたのです?」
九尾は淡々とその質問に答える。
「あの名前の読み方だ。それが、びっしりと引き出しの内側に記してある」
岡田がごくりと唾を飲み込む。
「それは……いったい……」
「知らない方がよいだろう。知れば恐らく正気を失う。このわたしですらな」
「正気を……」
「警察にも釘を刺すべきだろうな……三番目の引き出しは見てはならないと」
そう言って九尾は、雲間から覗く霞んだ三日月を見あげた。
それから、九尾天全と岡田冬麻は少女を連れて夜の田舎道を歩き、近くの町の交番に向かった。そこで駐在の警官たちに事情を説明する。
すると、あの家に住む一家の事は有名らしく警官たちの飲み込みは早かった。
九尾による「鏡台の三番目の引き出しを見てはいけない」という忠告も、すんなりと受け入れてくれた。
鏡台に関しては、警察が現場検証を終えたあとで、九尾が破棄を請け負う事で話はまとまる。
更に九尾たちは警官から、あの家に住む者たちについて詳しい話を聞く事ができた。
それによれば、あの一家は呪いで生計を立てていたらしく、妖しげな逸話には事欠かないのだという。
ゆえに、この近隣に住む者たちは恐れて、あの一家に誰も関わろうとしなかったのだそうだ。
家族構成は母親と娘三人で、父親の姿を見た者はいないらしい。
あの家では、母と次女と三女が暮らしており、長女は福井市内の親族の元から高等女学校に通っているのだとか。
その長女が、あの凄惨な現場において唯一の生き残りの三編みの少女であった。
彼女は既に泣き止んではいたが、心ここに有らずといった様子で話を聞ける状態ではなかった。
けっきょく、交番で朝まで預かり、近くの病院へ連れて行く事で話はまとまる。
それから、九尾天全と岡田冬麻が宿へと戻ったのは、既に日付を大きく跨いだあとだった。
そうして翌日の早朝、二人は長女の回復を待つ間、彼女の寄宿先である親族の元を訪ねるために福井市内へと向かう事にした――。