【01】九尾天全
令和になって最初の九月。
三連休の前日の昼下がりだった。
オカシン本社内の応接で霊能者の九尾天全は、一人の男と向き合っていた。
オカシン常務の原田昇である。
「わざわざ、ご足労いただきまして、申し訳ありません。先生」
「いえ……」
九尾は静かに首を振り応接卓の上に置かれた茶を静かに啜る。
この本社屋に入ってから、彼女の鼻先に卵の腐ったような臭いがかすめていた。
「それで、先生にお願いしたいのは……」
原田が話を切り出そうとするのを制するように九尾は言葉を発する。
「不気味な男ですね……」
と、だけ言った。
すると原田昇は驚いた様子で大きく目を見開く。
「だ、誰かから聞いたのですか?」
その男は原田の座るソファーの後ろに立ち、何かを言いたげな眼差しでじっと九尾を睨めつけていた。
「いえ。視えただけです」
今あなたの後ろにいますよ……とは正直に言えなかった。
特に害意は感じなかったので、九尾は曖昧に笑って誤魔化す。
すると原田は膝の上で手を組み、ぽつぽつと語り始める。
「今年の三月頃だったと思いますね。その男が出没し始めたのは……」
「この本社ビルにですか?」
と、言って九尾は室内を見渡す。
鹿の剥製や県内出身の日本画家の作品などが壁には飾られ、調度品はかなり高価な物ばかりのようだ。どうやら、相当に儲けているらしい。
「……いえ。このビルだけではありません」
原田が九尾の質問に答える。
「このビルだけではない?」
「ええ。他の事務所や現場にまで。ウチと関係のある、ありとあらゆるところに出ます」
「そうですか……」
九尾は茶を啜り考える。
つまり、この不気味な男の霊は土地や人ではなく、オカシンそのものに取り憑いているのだろうと推測する。
「では、原田さんはその男をご覧になった事はありますか?」
原田はかぶりを振って否定した。
万物には“相性”のような物が存在する。
その“相性”が合わないと、人は霊の存在を認識できない。また霊も人に干渉できない。
九尾のような霊能者は、ある程度この“相性”を動かす事ができる。その結果、様々な霊の存在を強く認識したり、また干渉したりする事ができるのだ。
恐らく原田は、この不気味な男の霊と“相性”が合わないのだろう。
彼は気まずそうに笑って、
「正直、私はまったく幽霊なんかの類いは信じていないのですが……あまりにも多くの目撃証言がありまして」
と、言ってから、はっ、と目を見開く。
「あ、いや……先生の力は別に疑ったりとか、そういう事じゃありませんよ? その……」
「大丈夫です。解っています」
九尾は苦笑する。
そして、そんな“信じていない”彼だからこそ、霊能者である自分の応対を任されたのだろうと納得する。
こちらが心霊にかこつけて無理な要求を押し通そうしても、そういった事に懐疑的な彼ならば防波堤になってくれる。そういう采配であろう。
九尾は話題を変える事にした。
「では、その男の霊による被害を具体的に教えてください」
原田は「それが……」と、苦笑いする。
「実はその男が何かの悪さをするという訳ではないんです」
「というと?」
「ただ、いつの間にか現れて、ニヤリと笑って突然、消える……それだけらしいんです」
「それだけ、ですか」
「はい」
以前よりずっと社員から訴えがあったのだが、実害がないのであれば、と捨て置かれていたのだという。
しかし、先日、ついに社長がその男を見てしまった。
男の霊は彼の想像よりずっと不気味で不吉に思えたらしい。
結果、社長は大騒ぎしたのちに、ついに男の霊を何とかするべく重い腰をあげた。
そうして、九尾にお鉢が回ってきたという事らしい。
「その男の素性は?」
「目撃した人間は、口をそろえて見た事のない顔だと……」
「うーん……」
九尾はもう一度、未だに立ち尽くしたままの男へと目線を向けた。
やはり害意は感じない。しかしよい気配でもない。
まるで、何かをじっと待っているような……。
さほど強い霊ではない。無理矢理にでも引き剥がすのは、そこまで難しくはないだろう。
しかし、それは緊急性を要する場合や最終手段となる。
できれば、その霊がこの世に留まる理由となっている未練を解消して天に送り届けたい。
それが九尾の除霊のスタンスであった。
「解りました。やってみましょう。ただ、少しだけお時間をください」
「ありがとうございます!」
原田が禿げあがった頭を深々とさげる。
すると、その直後、原田の背後にいた男はニヤリとほくそ笑んで消えた。
同時に九尾の脳裏に、ある映像が流れ込む。
それは、まるで黴の生えた高野豆腐のような建物だった。
そして腐った卵のような臭いがぴたりとかき消える。
「それで……ご料金の方は……」
「ええ。お電話で説明した通りのお値段と交通費などの必要経費以外はいただかないので」
一度、電話で料金については説明したはずだが不安だったのだろう。
この男はよく言えば用心深い、悪く言えば猜疑心の強い小心者なのだと、九尾は推測する。
自らが値踏みされている事も露知らず、原田は卑屈に笑う。
「そういう事でしたか……」
と言って、揉み手をした。
オカシン本社の社長室にて。
「霊能者はどうだった?」
立派な書斎机の向こうで、背もたれの大きな革張りの椅子に腰を降ろしているのは、オカシン社長の岡崎政直である。
その彼の質問に答えたのは、ついさっきまで九尾天全への応対をしていた原田常務だ。
「取り合えず、帰りましたよ。えらい美人でした」
そう言って下卑た笑いを浮かべる原田。
彼の言葉を鼻を鳴らして受け流し、岡崎は更に質問を発する。
「……で、お前の目から見て、本物か? 使えそうなのか?」
原田は数秒だけ思案し、慎重に言葉を選んだ後に答える。
「ええ。こちらが説明する前から、あの例の不気味な男の事を口にしまして。視えたとか何とか。……ただ、もちろん、事前にうちの社員の誰から話を聞いていた可能性も充分にありますがね」
「そうか……」
と、唸る岡崎。
原田は臆病だが手堅く、俯瞰して物事を考える事の出来る男だ。
だから岡崎は九尾の応対を原田に任せ、あの不気味な男の霊を目撃してしまった自分は、いっさい手をつけない事にした。
岡崎は先日の帰り際に本社屋の玄関で見た、あの不気味な男の事を思い出す。
正直な話、ぞっとして小便を漏らしそうになった。
今のところ、特に実害はない。しかし、岡崎は、あの男は何かよくないモノであると直感的に悟っていた。
岡崎はかぶりを振って、不気味な男のイメージを脳内から追い払う。
「兎に角、とっとと、あの薄気味の悪い男を、どうにかしてもらえ……」
「はっ」
「それから、その霊能者が余計な事に気がつかないように、しっかり見張っておけよ?」
「はっ」
原田は岡崎に悪の幹部のような返事を返した。