【05】見蔭病院の怪
師崎康史はガレージから母屋に戻ると、実松茂親の自宅に電話をかけた。
勝江について相談したい事があるというと、すぐにそちらへ向かうと言って、実松は電話を切った。
それから三分ほどでインターフォンが鳴る。
実松か……とも思ったが、少し早すぎる気がした。実松の自宅は大己貴神社の裏手にあり、師崎家から一キロほど離れている。
ともあれ、康史は玄関先へ向かう。
すると、薄暗い三和土の向こうにある引き戸の磨り硝子に、ぼやけた人型の輪郭が浮かんでいた。
次の瞬間、聞き覚えのある声が外から聞こえてくる。
「おーい。師崎のぉ いるんか?」
康史は、ほっとしてサンダルを突っかけてクレセント錠を摘まもうとした。しかし、鍵はされていなかったので、引き戸に手をかけて開ける。
すると、頭にタオルを巻いた作務衣姿の男が戸口の向こうに立っていた。
まごう事なき、大己貴神社の宮司である実松茂親の姿であった。
「おお、実松、悪いな突然。取り合えず、入りなっせ」
康史は実松を招き入れる。上がり框に並んで腰をおろし、勝江に対する疑念を彼に聞かせた。
彼は地区住民の相談役のようなもので、康史もよくこうして雑談がてら、彼に悩みを打ち明けたりしていた。
「……という訳で、単に頭がボケたっていう話なら仕方がないが、どうも最近、勝江が別人になってしまったような気がしてのぉ……」
と、康史が苦笑しながら話を結ぶと、実松は神妙な顔つきで口を開く。
「うーん。本当に今の勝江さん、勝江さんじゃないかもしれん」
「え!?」
実松の顔を覗き込む康史。とても冗談を言っているようには思えなかった。
「ああ。今の勝江さん、巨頭さんが化けているのかもしれんぞ」
「まさか……」
康史は、この清戸に今も残る伝説を思い出す。
その話の中に出てきた巨頭の怪物は人に化けて成り代わる。
ぞわぞわと背筋に冷たいものが走った。
「勝江さん、巨頭地蔵の祠に散歩へいくのが日課だったろ?」
「ああ……」
康史は実松の言葉にどんよりとした返事をした。
あの祠は巨頭の怪物を封じた場所である。
そして、去年の今頃の事だった。
他所からやってきた若者が、祠の周囲で動画の撮影をおこなった。その際に彼らは“赤獅子神楽のとき以外は祠を開けてはならない”という禁を破ってしまった。
動画では、祠の扉が壊れていたという事になってはいたが、あの二人が壊した事は明白であった。
そこで、この暴挙に対して法的な手段を取ろうと警察に相談していた矢先、例の二人が奇怪な死を遂げた。
もちろん、スウェーデン堀と富田Dの死因は、あの発狂の家の呪いである。しかし、康史はそんな事を知るよしもない。
それはさておき、ここで一つの疑念が頭をもたげる。あの祠に封じられていたモノ――二人を死に至らしめたであろう何かが、勝江の振りをしているのではないか。
思い起こしてみれば、今年の赤獅子神楽が中止になった流れを作ったのも勝江である。
濱田の家へと怒鳴り込み、彼らへの差別を助長した動機が、全部そのためだったとしたら……。
今の勝江にとって、赤獅子神楽の開催は都合が悪かったのだとしたら……。
「あああ……」
康史は大きく両目を見開き、愕然とする。
「そんな、馬鹿な……巨頭さんなんて、現実にいる訳が……」
実松は残念そうに白眉をひそめ、首を横に振った。
「いんや。巨頭さんはいる。……師崎の」
「何だ?」
「最近、町の様子がおかしい。今年の二月頃にも、ホームセンターで……」
「ああ……」
康史は実松に言われて思い出す。
それはちょうど今年の二月だった。
清戸町の外れにあるホームセンターの店内で、買い物にきていた八十代の男が、とつぜん大声を出してぶっ倒れた。
そのまま病院に運ばれたのだという。けっきょく、男は帰らぬ人となった。死因は心筋梗塞であったらしい。
「そのとき、ホームセンターにいあわせた知り合いによると、男は倒れる前に“化け物!”という叫び声をあげたそうだ」
「まさか……」
伝説では、巨頭の怪物を目撃した旅の侍が死んだあと、村では疫病が流行した。
コロナウィルスが巷を席巻し始めたのは、ちょうどそのホームセンターの男が死んでからだ。
実松の話が事実ならば、今の清戸町の状況は伝説をなぞっているかのようにも感じられる。
「今日も国道沿いのコンビニで騒動があったという話だ。巨頭さんと関係があるかは知らんが、最近町の様子がおかしい」
「巨頭さん……そんなものが現実に……」
康史は唇を恐怖に戦慄かせる。すると、実松が立ちあがった。
「兎に角、確かめてみよう」
「確かめる……?」
実松の横顔を見あげる。
「見蔭医院」
康史は、はっとする。
「勝江さんに、会って確かめてみよう」
実松の言葉を受けて、康史はゆっくりと頷く。
二人は康史の運転する車に乗り込み、見蔭医院へと向かった。
住宅街の隙間に、その四角い建物はあった。
『内科、整形外科 見蔭医院』
康史は正面のブロック塀沿いに車を停める。実松と共に門を潜る。
エントランスの奥に漂う薄暗がりの向こうにある二枚の硝子戸。
その向こうは灰色のカーテンに閉ざされており、人気はいっさい感じられない。
硝子扉の裏側から貼られた廃院を告知する張り紙は、黄ばんで汚れていた。
「師崎の。見ろ」
実松が声をあげ指差す。
彼の指先には、扉口の脇に落ちていた黄色と黒のストライプのロープがあった。
まるでとぐろを巻いた毒蛇のようにも見える不気味なそれを眺め、康史は尋ねる。
「あれがどうした……?」
「あのロープ、前は扉の取っ手に渡してあったものなんじゃねえか?」
「ああ……そうだっけか」
康史が曖昧な返事をすると、実松は扉に近づき取っ手を引いた。すると……。
「開いてるぞ……」
康史は、ごくりと喉を鳴らす。
「勝江は中にいるのか?」
「解らん」
実松は、そう言い残して空いた扉の隙間から身を滑り込ませた。
康史もあとに続く。
すると、狭い三和土と昔ながらの木製の下駄箱や傘立てがあり、左手奥に待合室へと続く硝子扉があった。
実松が土足であがったので、少し迷ったが康史も靴を脱がずに続く。二人は硝子扉の向こうに足を踏み入れた。
カーテンの閉まった受付カウンター、雑誌や新聞を入れておくラック、電源を落とした紙パック飲料の自動販売機。
茶色い長椅子は壁際に除けられていた。
そして、カウンターの左横から延びた長い廊下の入り口だった。
腰を曲げた白髪の老婆が康史たちに背を向けて立っていた。
師崎勝江である。
「勝江……!?」
その声に、勝江がゆっくりと振り向く。
すると、まるで風船がゆっくりと膨らむように、その頭部が大きくなってゆく。
「ああ……ああ……勝……江」
康史は後退りをして腰を抜かす。
頭部が肥大化した勝江は不気味に笑い、ふっ……と消え失せた。
康史の絶叫が轟いた。