【09】再教育
「すまないね。ガギエル・ヒロオ・カジ……。この日が来る前に綺麗に片付けておきたかったけれど、手が回らなかった」
そう言って、緒沢恵は、かつて集団自殺のあった大広間を見渡した。
その口調や仕草に狂気は感じられず、とても穏やかだった。加地はほっとする。
しかし、記憶によれば緒沢はまだ五十代であったはずだ。それなのに、目の前にいる彼女の年齢は、ゆうに六十を越しているように見えた。
恐らく一九九九年以降の彼女の人生も、けっして平坦なものではなかったのだろう。
加地は緒沢に対して深い共感を抱いた。
「……それで、彼が神人くんかい?」
そう言って、緒沢から目線を移した。
「ああ、そうだよ」
寝ているのだろうか。うつむいたまま、顔をあげようともしない。まるでマネキン人形のようだと加地は思った。
「彼の洗礼名は?」
「あの人と同じ、ミカエルにした」
「そうか……」
目を細める加地。
洗礼名で呼び合っていると、楽しかったあの頃に戻れたような気がして、胸の奥が熱を帯びる。
「ところで、サキエルもくると聞いていたけど……」
「まだ来ていない。昼過ぎになるって」
「本当にサキエルは来るのかい?」
「来るよ。絶対に来る」
その緒沢の言葉が、加地にはやけに確信めいているように感じられた。若干の訝しさを覚えながらも、早々に話の本題へと切り込む事にした。
「……それで、けっきょく、君は何をしようとしているんだ? 僕は何を手伝ったらいい?」
「話はサキエルがきてからにしようと思っていたけど、先に始めるか……」
「ああ……それで?」
と、加地が話を促すと、緒沢は得意満面の笑みを浮かべて滔々と語り始める。
「……今、世界は混迷を深めている。あの人の予言は真実だったのさ。やはり、世界は一九九九年の七の月で終わっていた。いっぺんに壊れるのではなく、咲き誇った花が萎れ、花弁を落として、徐々に茶色く枯れ果てて、地に臥せゆくように、今も世界は終わり続けている真っ最中なんだよ。その事に気がつかず、愚かな低次元人たちは苦しんでいる。そういった者たちを私たちの手で救済する」
「だから、君はいったい何をしたいんだ……?」
具体的な話が出てこない事に加地は苦笑した。すると、唐突に緒沢が苛立ちをあらわにしだす。
「だから! 我々が迷える者たちを啓蒙するんだ! やはり愚かな低次元人は解っていない……何も解っていない」
緒沢は頭を振り乱し嘆いてみせた。
「貧困、災害、環境汚染、社会不安、そして、この絶望的な病禍がとどめだ。もう世界は死んだ! ……にも関わらずだ、ガギエル」
「い、いや……何の話をしているんだ? サンダルフォン」
その加地の問いかけに答えはなかった。その代わり、聞き手を無視した独りよがりの演説は更に続く。
「驚いた事に愚かな低次元人たちは、未だにこの世界にしがみつこうとしている。もう終わった世界なのに。“団結……絆……命を大切に” 反吐が出る偽善だね。知っているかい? 今年の二月から五月までの自殺者数が減少傾向にあった事に。死ねば楽になるのに、死ねばいいのにっ!」
「ちょっ……ちょっと、待て」
「そんな連中に啓蒙するのさ。今はあの頃と違ってインターネットがある。インターネットを使って、この世界が既に一九九九年の七の月で終わっていた事を、この世界が生きる価値のない場所である事を、教えてやるんだよ。無知蒙昧なる凡愚どもに!」
加地は予想の斜め上をゆく彼女の狂気に気圧され絶句する。しかし、ここからが本番だった。
「そして、我々の言葉を理解できた見込みのある者たちを、この場所に集めて、最後の聖餐をもう一度、執り行うんだ。私たちで、この世界の嘆き迷える者たちを次のステージへと導くんだよ!」
「あー、ちょっと、待て……ちょっと、待ってくれよ? サンダルフォン」
加地はヒートアップし続ける緒沢を右手で制する。そして、理解が追いつかない思考をどうにかまとめる。
「つまり、ネットを使って自殺教唆をおこない、賛同した者を集め、自殺幇助をするという事か?」
緒沢が肩を揺らして笑う。
「低次元人にも解る言葉にすると、そうなるかね……」
できる訳がない。
“世の中辛いから自殺して楽になろう”
そんなまともではない言説が世間に受け入れられる訳がない。
よしんば、賛同する者がいたとしても、それは単なる犯罪行為だ。そんな事は論じるまでもない。すっかりと信仰心の薄れていた加地にとって考えるまでもない事であった。
しかし、緒沢は違うのだ。
未だに一九九九年のあの日から彼女は何も変わっていない。ずっと教祖御鏡の言葉に囚われ続けている。
耐え難い嫌悪感に襲われ、加地は苦笑しながら後退りする。
「いや、その……流石に無茶じゃないかな? 俺たちだけじゃ。もう御鏡様もいないし」
「大丈夫さ。この子がいる。この子が、新世界の救世主になればいいんだ」
緒沢は笑う。
その微笑みは柔らかで優しい。まるでイコンの中の聖人のようであった。
しかし、断固として自分が信じるもの以外のすべての言葉を拒絶する狂人の微笑でもあった。
「ああ……あああ……」
加地は唇を怖気に震わせた。
彼は単にあの幸せだった時代に戻りたかっただけだ。
すべてが悪い方向に転がり始めた一九九五年より前に……。
加地は自らの居場所が欲しかっただけなのだ。
「どうした? ガギエル」
緒沢は怪訝そうに首を傾げた。
「ど、どうしたも、こうしたも、あるか……」
加地の右足の踵が木の枝を踏みつけた。その拍子に彼はバランスを崩し、尻餅をついてしまう。
「おや、大丈夫かい? ガギエル」
緒沢が車椅子を押して歩み寄る。
次の瞬間だった。
加地は見てしまった。
目深に被られたフードの中身を……。
「お、おおお……お前……」
「だから、何だい? 言いたい事があるならはっきりと言いなよ、ガギエル」
加地は叫んだ。
「こっ、この化け物めッ!」
すると、幼い男児のような口調の声音が響いた。
「お母様、こいつ僕の事を化け物って言ったよ」
「おま、お前……何を言っているんだ……?」
「そうだねえ、酷いねえ……」
緒沢は目を細め、白いフードに覆われた息子の頭を優しく撫でる。
右端に黒子の浮いた唇が歪む。
「こいつ、再教育しなきゃ」
「やめ……やめろ……」
加地は必死に立ちあがろうとするが、完全に腰が抜けてしまい、ままならない。
すると、白いローブの袖口に隠されていたサバイバルナイフが抜き放たれる。
「ガギエル……僕がお前を虹の彼方に連れていってあげる」
「あああ……やめろぉおッ!!」
大広間に加地博雄の絶叫が響き渡った。