【00】メシア
一九九九年の最後の日曜日。
天窓から降り注ぐ陽光により、その大広間は穏やかな暖かさに満たされていた。入り口近くには行列ができており、そこには数十名の人々が並んでいる。
若い男女が多かったが、中には親に手を引かれた幼子もいた。全員が真っ白いローブを身に着けており、全員が木製の器を携えている。
誰もが朗らかな笑顔で、このときを待ちわびていたのが窺えた。
その列の先頭では、目を弓なりにしならせた割烹着姿の中年女性が、銀のワゴンに乗せられた給食缶からお玉ですくった液体を木製の器にそそぎ入れている。
薄い紫でドロリとしており、甘ったるいブルーベリーの香りがした。きっと、その匂いのままの味がするのは、誰でも容易に想像がつくであろう。
「はい、どうぞ」
「ありがとー」
まだ五歳前後の少女が器を満面の笑みで受け取る。
そして、ワゴンの前から早足で去ると、列から離れた壁際で佇む母親の元へと向かう。
少女は器に口をつけようとした。すると、その瞬間、母親の鋭い声が飛んだ。
「駄目ッ!」
少女は器を口元からおろし、きょとんとした表情で母親を見あげる。
母親は我が子の頭にそっと手を置いて、優しく微笑んだ。
「駄目よ。みんな揃ってから。私たちは全員、家族なんだから」
少女は、しょんぼりとしながらも素直に頷く。
母親は満足げに頷き、彼女の頭をいとおしげに撫で回す。
その様子を三人の男が遠巻きに眺めながら微笑みを浮かべていた。彼らの右手には、既に満たされた木の器が持たれている。
「……いよいよか」
「楽しみですね」
「ええ……」
三人が大広間の最奥にあるステージへと目線を向ける。
そこには、よくある演台とマイク。そして、後ろの壁には大きな白い旗が掲げられており、そこには大きな六芒星が記されていた。
六芒星の中央には赤い薔薇の花が描かれている。
そのマークに目線を置いたまま、三人は会話を続ける。
「真神様は、まだかなあ……」
「ここにくる前、副代表が今はまだ瞑想の途中だとおっしゃっていた」
「今日は、ことさら、己の中のオーラを高める必要があるのだろうな」
「そういや、徳元くんの顔が見えないけど……」
「副代表のとこにいるんじゃないの?」
そうこうするうちに列にいるすべての人間が自らの木の器にその液体を受け取り終わる。
すると、耳障りなハウリング音が鳴り響き、天井付近に設置されたスピーカーから音声が発せられた。
「真神様が、いらっしゃいます」
大広間にいたすべての物たちが息を飲んだ。
全員がぞろぞろとステージの前に集まり始めた。
「ついに予言成就のときはきた……」
ステージ上の演台に着いた男は熱弁を振るう。
聴衆たちと同じく白いローブを着ており、物腰は自信に満ち溢れて堂々としていた。しかし、見る人が見れば、単なる赤ら顔の小肥りした髭面の中年にしか見えない事だろう。
しかし、その場にいる誰もが彼を濁りなき羨望の眼差しで見つめている。
「……神意と命運により、この場に集まった選ばれし使徒たちよ」
聞く人が聞けば、彼の言うことは回りくどく、意味不明で滑稽だった。
しかし、彼の言葉を疑った様子の者など、この場には誰もいなかった。
壇上の彼の演説は更に続く。
「……もうすぐで、定められし“七の月”が訪れる。その前に我々は次のステージへのアセションを試みる」
そこで歓声が沸き起こる。
壇上の彼は聴衆へと向かって両手をかざし鎮まるように促す。
やがて、水をうったような静けさが訪れる。演説が再開される。
「……これは、魂のアウフヘーベンであるッ! 恐れるなッ! 信じよッ! 今こそ、ここにいる諸君と我は一つとなる。これはそのための通過儀礼だッ! 我に続けッ!」
そう言って、壇上の彼は演台の上にあがっていた木製の器を手に取った。
それを口元まで持ちあげて傾ける。
その動作を追うように、聴衆たちが次々に木製の器の中の液体に口をつけ始める――
――すると、大広間にいる人々が次々と、呻き声をあげ、膝を折り、倒れ始めた。
泡を吹き、白眼をむき、痙攣し始める。
床でのたうち回り、次第に動くのをやめてゆく。
その日だまりの中にあった空間は、瞬く間に阿鼻叫喚の地獄絵図と化したのだった。
二〇〇五年の夏頃だった。
市営団地の一室にて。
掃き出し窓を覆うカーテンの隙間からは、あの日のような日差しが射し込んでいた。
『宗教団体施設で36名死亡 集団自殺か』
その畳の上に広げられたスクラップブックの中の新聞記事にある見出しを少年は目で追う。
すると、彼の頭越しに母親が語りかけてきた。
「いいかい? 神人」
神人と呼ばれた少年は首を捻り、母親の顔を見あげた。
「真神様と私たち三十九名の使徒は、あの日、この世界よりも、もっと高い場所へと旅立つはずだったんだ」
そう言って、彼女は神人の頭にそっと手を置いた。
「でもね? 私とあなただけが旅立てなかった。なぜか解るかい?」
神人は首を横に振る。
「それはね。神人。あなたが、あちらへ旅立ってしまった真神様の代わりに、この終わってしまった世界に取り残された愚かな人間たちを救うお役目を与えられたからだよ。そして、母として、あなたを正しく導くのが私のお役目……」
母親はゆっくりと神人の頭を撫でる。
すると、彼は首を傾げて端的に問うた。
「なんで?」
そこで、母親の口角が大きく釣りあがる。瞳孔が見開かれる。
「それは、あなたが真神様の子供だからよ」
「しんじさまの……」
神人はその名前を呟き、もう一度だけ問うた。
「それがぼくのパパなの?」
「そうだよ。神人。あんたは、救世主なの。だから、名前も“神人”なのよ……」
そう言った母親の双眸には、明らかな狂気の色が差していた。
しかし、幼い神人はそれに気がつけず、また、例え気がついたとしても、どうする事もできないのであった。