【10】動かぬ証拠
二〇二〇年七月一日の昼さがり。
それは瀟洒な調度類に囲まれたマンションのリビングだった。
その都内の湾岸エリアを一望できる硝子張りを背にして、高価なイタリア製のソファーに座るのは、身なりのよい女性である。
歳の頃は四十代ぐらいだろうか。
中肉中背で整った顔立ち。
しかし、一度見た程度では“整った顔立ち”という以外の印象がまったく残らない……そんな容姿の女であった。
彼女の名前は田中和子。
銀座で画廊を営んでいるという話で『Hexenladen』の常連客でもあった。
週に一度くらいの頻度で店に立ち寄り、ハーブやポプリなどを購入してゆく。
つい三日前も来店したばかりであった。
因みに、九尾はこの田中からオカルト方面での仕事を請け負った事は一度もない。
その田中が湯気立ち昇るウェッジウッドのティーカップを優雅な所作で持ちあげて口を開いた。
「それで、今日はどんなご用件で? 九尾さん。そして、その方はいったい……」
そう言って、自ら淹れたローズヒップティーを口に含んで微笑む。
すると、応接卓を挟んで反対側のソファーに座る九尾天全が、その質問に答える。
「彼は、夏目竜之介。警察庁の者です」
「どうもー」
場に漂う雰囲気にまったく似つかわしくない明るい声で、二本指を立てた右手を額の上で掲げる夏目。
そんな彼の挨拶を受けて、田中は口元に手を当てて上品に笑う。
「ユニークなお方みたいね」
「すいません」と、なぜか謝る九尾であった。
「それで……」
田中はティーカップをソーサーの上に戻す。
「話というのはいったい……」
再度促されて本題を切り出したのは夏目であった。
「……田中さんは“hog”という言葉に、心当たりはないですか?」
「hog……さあ」
田中の表情は変わらない。にこやかな笑みを浮かべたままだった。
その表情を一瞥してから口を開く九尾。
「有名な犯罪者の通り名です。名前の由来はhand of gloryという、本物の人間の手首を材料にした燭台なんですが……」
田中は、くすりと微笑み、
「本物の人間の手首? あら、まあ……悪趣味だわ」
と、言って肩をすくめた。
「先日、ある日本海側の町で、hogによる殺人事件が発生しました。ヤツは自らのアジトにて、そのhand of gloryを実際に製作しようとしたのです。拉致監禁した被害者の手首を切り取って……」
「まあ、怖い」
田中は口元を手で覆いながらクスクスと笑う。
「……そのお話が、私と何か関係があるのですか?」
そこで九尾が話を引き継ぐ。
「ええ。実は先日、わたしの店で盗聴器が発見されました。それが、どうも、そのhogの仕業だと思われまして……」
「つまり、そのhogさんは、九尾さんのお店に出入りする人間だと……?」
「まあ、そうですね」と、九尾は申し訳なさそうな顔をする。
すると、田中は意地の悪い笑みを浮かべて言う。
「もしかして、私、疑われてます? 私がその魔術師だと……?」
「いや、そのですねえ……」
九尾が言葉を濁すと、夏目が「ふん」と鼻を鳴らした。
「つーか、おばさんがhogっしょ? すっとぼけんのも、いい加減にしてよね」
「まあ!」
田中は白々しく聞こえる声をあげて、大きく目を見開いた。
「なぜ、私がその魔術師だと、お思いに?」
「それ、わざとだろ? オレらはhogが魔術師だなんて、一言も口にしてねえけど?」
「あらあらあら……うふふふ……」
田中は上半身を揺すりながら、ゲラゲラと笑い始めた。
「ならば、これは、例えばの話ですけど……」
「何だよ?」
「私がそのhogという人物が何者か知っていたとして、それで、どうなるのですか?」
「何だと……?」
夏目が剣呑な眼差しで、田中を睨みつける。
「ええ。私はhogという人物を知っているのかもしれないわ。九尾さんのお店に盗聴器を仕掛けたのかもしれない。ああ……あと、鼠も一匹、放ったのかもしれない。でもね……」
田中は乱れぬ所作で、ティーカップを持ちあげて口元に運ぶ。
「だったとしても、私=hogとかいう頭のおかしい犯罪者という事にはならないわよね? 日本海側の町で拉致監禁した人物の手首を切り取った? それが私の仕業だと? なぜ、何で? どうして、そうなるのかしらぁ……うふふふ」
「田中さん……」
と、そこで声をあげたのは九尾であった。
「そのhogのアジトに先日、わたしの友人たちが、お邪魔しました」
「九尾さんの……友人?」
田中は笑うのをやめて眉をひそめた。
「そこで友人の一人がhogとおぼしき人物に襲われたんですけど……」
「だから、その一件と私に何の関係があるというのかしら……?」
「その際に、hogとおぼしき人物に右手首を掴まれたそうです。このときの指紋が、彼女の右手首に巻かれていたミリタリーウォッチにしっかりと残されていました」
ここまで余裕の態度を崩そうとしなかった田中は大きく目を見開き驚愕をあらわにした。
「……その指紋と、先日、あなたが来店した際に採らせてもらった指紋が一致しました」
九尾は先月の二十三日に、桜井と茅野から、旗竿地に現れた謎の古民家の話をリモート越しに聞かされる。
動画や写真も見せてもらい、これはhogのアジトで間違いはないと確信したので二人に事情を明かした。すると、茅野が腕時計の事を思い出した。
ただちに、その腕時計を送ってもらいhogの指紋を採取する。以降は夏目と協力して店を訪れた者の指紋を集めていた。
「九尾ちゃんのお友だちの証言、ミリタリーウォッチの指紋、あんたの指紋……更に被害者の死体を撮影した動画と写真。これだけ揃えば、あんたの両手に手錠をかける理由にはなると思うけど?」
そう言って、夏目は不敵に笑う。
次の瞬間、田中が勢いよく腰を浮かせた。
「おっと。下手な真似はよしなよ」
夏目がジャケットの内側のホルスターからP230JPを抜き、その銃口を田中に向ける。
「オレにこれを撃たせないでくれよ? 始末書って、けっこうメンドクセーんだ」
田中は諦めた様子で両手をあげて、再びソファーに腰を落とした。
深々と溜め息を吐いて、天井を仰ぐ。
「九尾さんに、夏目くんと言ったか……見事だ。君たちの努力に敬意を払い、ここは大人しく捕まるとしようか」
それは、さっきとはまるで別人のような口調であった。
「へっ、言ってろ」
夏目が鼻を鳴らす。そして田中は淡々と言葉を紡いだ。
「しかし、一つだけいいだろうか?」
「何?」
九尾が聞き返すと、田中はどうにも納得のいかない顔つきで言った。
「あの少女は、何者なのだ……?」
この問いに九尾は真面目な顔で即答する。
「彼女たちは、関わっちゃ駄目な人たちよ」
「そうか……。君ほどの者が、そこまで言うのだから、余程なのだろうな」
田中和子こと魔術師hogは、静かに目を閉じて微笑んだ。